京都人の「ぶぶ漬けでもどうどす?」は、どんな意味合いがあるのか!?

京都探訪

京都人の「ぶぶ漬けでもどうどす?」は、どんな意味合いがあるのか!?

 

京都以外の人はよく京都人のことを「意地が悪い」という思いを持つ。京都の人は本音を出さないとか、京都の人の言葉には裏があるとか言われることが多い。

 

よく聞く話に、京都では「ぶぶ漬けは、如何どすか?」と聞かれたら、「そろそろ帰ってくださいな」という意味だといいます。 ぶぶ漬けとは、お茶漬けのこと。酒呑みにとって、最後に食べるものなので、転じて、そういう意味になったのだと説明されています。

 

更に、もし本当に食べて帰ったら、もののわからないヤツというか、空気の読めないヤツとされる、といいます。本当でしょうか?

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実は、これ、大阪で発達した上方落語の「京の茶(ぶぶ)漬け」に出て来る話が、一人歩きしているようです。ある客が、京都での用を済ませて帰ろうとすると、「何もおへんけど、ぶぶ漬けでも」と勧められ、「ちょっとだけ」と返事してしまいます。その結果、台所では、「厚かましおすな」「常識がおへん」と、言われたい放題となってしまいます。

 

【今どき「ぶぶ漬けでも」とは言われない?】

 

東京でも大阪でも誰かが家に訪ねてきてくれるのはある程度親しい人ですから、どちらかといえば「もう帰ります」と言ってもまず引き留めることはよくあります。

 

「え、もう帰るの? まあそう言わずにビールもう一杯飲んでいけば?」とか、「あら、今ちょうどコーヒーを入れようとしたところなのに」といった具合に相手に声をかけるのは別に珍しくもないし、ましてや早く帰ってほしいから、わざと言うわけではありません。

 

京都でも同じで、今どき「ぶぶ漬けでも」というセリフが聞けるかどうかはわかりませんが、少なくとも「何か召し上がれば?」といって引き留められるのはあくまでも好意的な場合が多いのです。

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ただ、何か言う場合に直截(ちょくせつ)的な物の言い方はなるべく避けるというのは京都の人の特徴といえるかも知れない。例えば割烹料理屋で、香水やコロンの匂いをぷんぷんさせている野暮な客がいたとします。そんな時に店の人から、「ええ匂いさせてはりますなあ。どこの香水どす?」と言われることがあります。これは「食べ物屋に来るときには、味だけではなくて香りを楽しんでいただきたいのだから、そんなキツイ香水をつけてくるのはお控えください」という意味なのです。

 

だったら、その通り言えばいいじゃないかと思われるかも知れませんが、あくまでもお客さんなので余りにもひどい振る舞いでない限りは注意できません。かと言って何も言わなければ他のお客さんにも迷惑になります。そこでこういう表現でさりげなくお客を窘めるのです。些細なことでもその場を共有するすべてのお客さんに心地よく過ごしてほしいという心遣いと考えるべきでしょう。

 

【本心を明かさない京都人は腹黒いのか】

 

このように本心を明かさないから京都人は腹黒いという人がいますが、実は京都人ではなくても同じようなことを日常生活で度々やっています。例えば人に物をあげる時に「これはつまらないものですが」と言って渡す事が多い。欧米人から見たら、「つまらないものだったら渡すのは失礼じゃないか」と思うでしょう。でも我々はだいたいこういう言い方をしますね。この意味は「これはとてもいいものだと私は思いますのであなたに差し上げたい。でもあなたにとってはつまらないものかも知れないし、気に入るかどうかはわかりませんが」ということだからです。あくまでも自分を主体に考えるのではなく、相手がどう思うかを重点的に考える発想です。日本人は自己主張をするよりも共同体の中でのルールを重んじ、常に配慮しながら生活するというDNAが備わっている結果とも言えるのではないか。それが良いか悪いかは別として、それが本来の日本人の性質なのです。そしてその日本人の特徴がギュッと凝縮されたのが京都人と言ってもいいのではないでしょうか。

 

京都人の基本は「他者に対する思いやり」と同時に「他人の領分は犯さない」のだろうと思います。京都は昔から公家、武家そして町衆が一体となって文化を築いてきた街です。時の為政者の多くは外からやってきて京を支配し、そしてまた新しい為政者にとって替わられるという歴史を繰り返してきました。他者に対する配慮に加えて、常に旗幟鮮明にしないことで、暮らしを守ってきた事も事実です。したがって他地域の人から見るとそれが冷たいとか裏があると感じるのかも知れません。しかしながら、そんな中で自然に醸成されてきた、言わば「おとなの対応」ができる人たちがいることも京都の大きな魅力です。

 

かつて仕事で京都に4年ほど住んでいました。京都の人たちは本当に親切にしてくれました。ただ、優しさや配慮を強く感じた半面、自分たちの領分はしっかり守るという強さを感じたこともまた事実です。ですから単純に意地悪だとか、腹黒いということでは決してないのです。これが1200年の都の成熟というものなのでしょう。京都はどこまでいっても奥が深い街です。

 

by経済コラムニスト・大江英樹氏

 

引用・参考元 https://thepage.jp/detail/20160912-00000011-wordleaf?page=2&utm_expid=90592221-4.LdrGpjcWS4Czgnu3l9N7Eg.0&utm_referrer=https

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