飛鳥時代の最大級の古墳と判明<小山田古墳>巨大方墳に驚き…研究者ら「天皇」、「豪族」の墓か!?
飛鳥時代最大級の方墳と判明した小山田古墳。一辺約70メートルという破格の大きさに研究者は驚きを隠さない。被葬者は初の官寺建設や遣唐使派遣などで知られる舒明(じょめい)天皇か、それとも天皇をしのぐ権勢を振るった豪族・蘇我蝦夷(そがのえみし)なのか。
飛鳥時代の大型方墳は、推古天皇陵とされる山田高塚古墳(大阪府太子町、長辺約60メートル)、石舞台古墳(明日香村、一辺約50メートル)などがある。当時の権力中枢からは離れるが、千葉県・龍角寺岩屋古墳は一辺78メートルある。
奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が新たに発見した石室通路(羨道(せんどう))の幅は約2・6メートルあり、石舞台古墳(2・1~2・6メートル)に匹敵する。小山田古墳が築かれたとみられる7世紀前半について、菅谷文則所長は「他の古墳が縮小していく時代に巨大な方墳を造れたのは天皇しかいない」と指摘し、舒明天皇の初葬地説を取る。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)も「大寺を造るなど国家形成の歴史の中で画期となる人物」と指摘。今尾文昭・関西大非常勤講師(同)は石室通路の石を抜き取った跡に着目して「抜き取り穴が丁寧に埋められている。改葬後にも公的管理が続いた印象がある」とし、討たれた蝦夷の墓とは考えにくいとみる。
一方、前園実知雄・奈良芸術短大教授(同)は「舒明天皇は火災で飛鳥岡本宮から別の宮へ移った後、二度と飛鳥に戻らなかった。飛鳥の中心地に墓を造るとは考えにくい」と反論し、蝦夷説を推す。日本書紀は、蝦夷が642年に自分と息子入鹿の「双墓(ならびばか)」を造り、「大陵小陵」と称したと記している。
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(同)は、小山田古墳は蝦夷、入鹿父子が邸宅を建てた甘樫丘(あまかしのおか)から南方に延びる丘陵にあることを指摘。「一帯は蘇我氏の根拠地。大王墓より大きな墓となれば、7世紀の政治史を解き明かす大きなヒントになる」とする。塚口義信・堺女子短大名誉学長(日本古代史)は、古墳の盛り土から見つかった瓦の破片が、蝦夷・入鹿の邸宅と関連があるとされる甘樫丘東麓(とうろく)遺跡の出土品と同型である点に注目する。「蘇我氏に有利な資料。西隣の菖蒲池(しょうぶいけ)古墳と併せて大陵小陵と考えたい」と話す。
記事・画像 引用・参考元 Yahoo News <毎日新聞>【矢追健介、皆木成実】
コメント