【蔵の町須坂探訪】福島正則と所縁がある龍鐙山寿泉院! 境内には「忠治地蔵」も祀られている!
曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏坐像 山号 龍鐙山。当寺は延暦年間(782-805)に空海(弘法大師)が遠州(静岡西部)で創建し、その後当地に移ったと伝えられる。当初は真言宗であったが故、揚柳観音がおられる。この観音様は、手に持っている柳の枝で種々の病を取り除く霊験があると言われ、信仰・参拝する人も多い。地番は、大字須坂1番地であり、須坂の地番の起点となっている。(境内案内板に依る)
☝ 運送屋の不注意で下半分が書けてしまった、正則自筆の扁額
その後明徳年間(1390~1393)に真言宗から現在の曹洞宗の寺になった。勿論この時は須坂藩は成立しておらず、初期の寺は遠州(静岡県西部)にあったと言われている。その後火災に遭ったりして長い間廃絶していたが興国寺9世桂巖嫩察(けいがんどんさつ)和尚を正式な一世として迎え中興された。真言宗であったので揚柳観音が伝えられた。この観音は中国で成立した仏で、手に持っている柳の枝は種々の病気を取り除く効力があると庶民の間に信仰を集めている。また、境内には秀吉ゆかりの聖観音を祀った北向観世音や、それを示す大きな石碑が建てられている。この石碑は、かつて日本一と謳われる大きさがあり、この聖観音は開運出世厄除けの霊験あらたかなものとして、信仰を集めている。
小生が子供の頃は、春先にお祭りがあり賑わっていた記憶がある。いまは子供の姿もあまり見かけることも無い様な状況になり、境内に遊んでいる子供の姿も無くひっそりとしている。この寺はまた、福島正則と深い縁があるお寺として有名である。
境内にある「福島正則公遺蹟碑」にはこう記されている。☞ 福島正則は秀吉軍武闘派として、文治派石田三成と対立。関ヶ原の戦いで東軍に付き、広島49万石の藩主となる。広島城修築を幕府に譴責され、川中島4万5千石(=高井群2万石+越後魚沼群2万5千石)に改易。元和5年信州須坂に到着。須坂藩2代藩主直升の配慮で寿泉院に仮寓。付き添ってきた嫡男忠勝の死去により、高井野の屋敷(高山村、掲載済み)に写る。その後度々寿泉院に来遊し、自分の屋敷の正門を寄進したり等、寿泉院と縁故深きため、当石碑を建立した。高さ2間半。揮毫は豊太閤護持仏碑と同様、当時の県知事大山綱昌氏に依る。
もう1つこの寺を語る際、落としてはいけないものがある。「忠治地蔵」の存在である。
忠治とは、言わずと知れた、あの「赤城の山も今宵限り・・・・・」で有名な「国定忠治親分」のことである。国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) – 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎。後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談や映画、新国劇などの演劇の題材となる。群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺に墓がある。長野市の権堂「秋葉神社」にも忠治の墓がある。
https://youtu.be/_0hM4xATvOc ☜ 忠治の墓 長野市権堂 秋葉神社 全国に数か所忠治の墓
があるが、そのうちの1つがこの秋葉神社である
引用元 須坂市公民館本館ブロック地域づくり推進委員会 発行 平成15年12月発行 平成18年3月改訂。「ふるさと歴史マップ 穀町・上町・本上町・上中町編」より
須坂のお宝 文化財探索 建造物編
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