長男・碇矢浩一さんが語る!【父の教え】あきらめず道を開く姿見せた父「いかりや長介」
■ドリフターズ事務所社長・碇矢浩一さん!しみじみ父を語る■
ミュージシャン、コメディアン、そして俳優。多彩な活躍で、人々の記憶に刻まれたいかりや長介さんが亡くなって11年。「おやじはものすごく不器用な人だったと思う。だけど、かっこよかったし、自慢の父親でした」。長男の碇矢浩一さん(46)はこう振り返った。
浩一さんが生まれた昭和44年は、後に50%を超える視聴率を記録した伝説的コント番組「8時だョ!全員集合」(TBS系)がスタートした年だ。細部まで緻密に作り込み、毎週公開生放送だったこの番組のために、幼い頃、父が家にいた記憶はほとんどない。
家で過ごすわずかな時間にも時として、制作現場で見せていた妥協を許さない厳しさが顔を出したという。マンションからビール瓶を落として遊んだときは容赦ないげんこつが飛んできた。「悪いことをしたら、骨身に染みさせるというのがおやじのやり方でした」
子供たちを叱るときは、生きていくうえでの指針を示した。「『ありがとう』『ごめんなさい』を言える人間になれ」。感謝と謝罪を率直に伝えることの難しさと大切さ。それは、長年グループで活動し、人間関係の困難を体験してきた実感から来ていたのかもしれない。こうした教えを守れなかったときは、特に厳しく叱責された。
「でも、怒りっぱなしじゃなかった。家族といる時間には、全力で家族をハッピーにしようとした」。一緒に風呂で遊んだり、6歳上の姉とともに遊園地に行ったり。テレビで見せた“強面(こわもて)”なイメージとは異なり、幼い子供たちに自身を「パパ」と呼ばせていた。
「全員集合」が60年に終了した後、いかりやさんは役者の道を歩み始める。家でもドラマや映画を熱心に研究し、役作りに励んだ。「ドラマに出始めた頃の演技は正直、見られたものではなかった。不器用だったけど、あきらめずに努力して花開いた。あきらめなければ可能性は開けると教えてくれました」。努力は実を結び、平成11年、定年を迎えた刑事指導員を演じた映画「踊る大捜査線 THE MOVIE」で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した。
一方で、社会に出る息子には「真っ当なサラリーマンとしての人生を歩んでほしい」と望んだ。「今は違うかもしれないが、おやじの中では『サラリーマン=堅実』という考えがあった。リスクのない堅実な人生を望んだのは親心だったんでしょう。子供ができた今は僕にもそれがわかります」。就職活動の際、父と接点の多い仕事をしたいという思いはあったが、最終的に入社試験を受けて一般企業に入る道を選んだ。
人気コメディアンという地位にこだわらず、一から努力を重ねる父の姿は、社会に出た息子に、大きな影響を与えた。「営業先でよく『おまえ、本当にしつこいな』といわれたものです。でも、僕にとってそれは最高のほめ言葉だった」
いかりやさんが頚部(けいぶ)リンパ節がんを発症したのは15年4月。亡くなったのは翌年3月だった。浩一さんは父の生きた証しを残すためドリフターズ事務所の代表取締役になった。「誰よりもおやじ自身が悔しかったはず。だから亡くなったとき『これからは俺が家族を守る』と思った。どこかで見守っていてくれたらなと思います」(戸谷真美)
≪メッセージ≫
おやじ、家族はみんな何とか元気にやってるよ。心配しないでいい。大丈夫だよ。
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【プロフィル】いかりや長介
いかりや・ちょうすけ 本名・碇矢長一。昭和6年、東京都生まれ。37年からザ・ドリフターズで活動。コント番組「8時だョ!全員集合」で、国民的人気を博す。番組終了後はドラマ「踊る大捜査線」シリーズをはじめ、俳優として活躍。平成16年、頚部リンパ節がんのため72歳で死去。著書に『だめだこりゃ』(新潮社)など。
【プロフィル】碇矢浩一
いかりや・こういち 昭和44年、東京都生まれ。明治大卒業後、森永製菓に入社。営業部、広告部などに勤務した後、退職。平成16年からドリフターズ事務所代表取締役。著書に『いかりや長介という生き方』(幻冬舎文庫)。
記事・画像 引用・参考元 Yahoo News <産経新聞>
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