信州における「忠治」考! 豊丘~須坂間の三原道から、忠治の足跡を追ってみた!(大日方の観音堂夫婦枝垂れ桜!・寿泉院の忠治地蔵)
豊丘延命地蔵堂のエドヒガン桜、弁天さんの枝垂れ桜を堪能し、須坂市内に戻る途中、観音崎というところに差し掛かったら、桜のトンネルがあったので車を停め、暫く桜を眺めるため歩いてみました。ここは。灰野川(はいのがわ)と、奈良川(なろうがわ)が、丁度合流する地点にあたり、川の流れが急で、旧三原道の難所中の難所だったところです。
☝ 難所だった観音崎。ここで2つの川が合流点だった
この三原道の豊丘には、大日如来道標[須坂市指定有形文化財=台石を含めた高さは277cm]があり、その「大日如来」と書かれた文字の左右には、小さく「右 上州みはら道(三原道)」「左 やまみち」と刻まれています。
三原道は、北国街道の脇街道であり、大笹街道の“ぬけ道”でした。[その為かの有名な国定忠治親分もこの抜け道を何度も通り、北信地区はおろか、遠く新潟や富山まで足を延ばしたそうです!]
市内南原町から豊丘町-三原峠-上州干俣(現群馬県吾妻郡嬬恋村)を通るこの道は、江戸時代中期ごろに整備されました。須坂-高崎間の距離が、北國街道や他の街道より短く関所・宿場が無かった為、費用も抑えられることから、盛んに利用されました。このため、他の街道にある各宿場は、利用者が減少したので、元治元(1864)年に須坂藩は「三原道の封鎖願い」を申請したこともあったそうです。にも関わらず、その後も交通は盛んでした。←便利なことには勝てぬ!
急で険しい三原道は、牛によって塩や海産物、米などの荷駄が運ばれました。道筋には、旅の無事を願い、牛の守護神である大日如来が多く祀られています。その一つが、最難所だったここ観音崎で、それを守るために、大日如来堂(実際は洞)、馬頭観音、お地蔵さんが祀られました。
明治維新があった慶応4(1868)年に先ほどの大日如来道標が建てられ、三原道も表街道以上の人や馬の往来をみましたが、やがて岡蒸気が敷設されるようになると、通行する商荷が激減し、その役目を終えていきました。
さてその観音崎から、坂田山の際を縫う様に、須坂中心部方向に行くと、大日方という集落に出ます。そこの山裾には、観音堂があり、そこに「夫婦桜」があり、春には、豪華絢爛な見事な桜が咲き誇ります。(2年程前の大雪で、東側の櫻が倒れてしまい、現在は1本丈になってしまい、非常に残念です)その桜の木の根元附近は、三原道が今でもはっきり残っているところで、忠治親分も、春には、この桜を見上げ乍ら上野~信州間を往来したのです。
☝ 三原道 坂田山(右側)の際を縫う様に走っている<山側の柵は熊や猪除けの柵です>
さてさて大日方を超え、いよいよ旧須坂市街地に入ると、上町に寿泉院という寺院に到達します。この寺院は、秀吉や、福島正紀と縁が深いことで知られているのですが、この境内に、何故か「忠治地蔵」が存在する。寿泉院の山門手前右側にあります。 江戸末期の侠客、国定忠治の地蔵菩薩で、嘉永3年(1850)に造られた。もとは野沢温泉にあり「中風除け忠治地蔵」として親しまれていた。昭和25年、訳あってここに安置された。このお地蔵様の評判は、寧ろ県外の方が高く、群馬県や新潟県等から態々訪れる人もいるという。
☝ 大日方の観音堂夫婦櫻の脇を通る三原道(桜は雪のため2年前1本倒れてしまった)
忠治は謂わずと知れた江戸末期の「赤城の山も今宵限り~」の浪曲で有名な任侠である。当時国定村[群馬県]では、天保の大飢饉があり、その際に、自らの私財を投げうって村人を助けたと言われている。信州へも屡々足を運んだようで、[北信はもとより、遠く越前、越中、越後方面にも脚を延ばした]、その際は大笹街道の抜け道[三原道]を通ったことでも知られている。賭博稼業など罪を重ね、しまいは搩刑の運命となる。
[三原道は、本道の抜け道的要素もあり、表向けに出来ない稼業の忠治が通ったということは、三原街道の機能を示しているようでおもしろい!]
長野市権堂にある、忠治地蔵の墓(全国に3・4箇所忠治の墓がある)については、別に記しておりますので、ご笑覧ください)
引用・参考元 信州「すざかのお宝」
動画・画像 Original
コメント