まほろばの国 ぶらり一人旅! 度重なる悲運を克服した法輪寺! ご住職の熱心な説明に聞き入る!
法輪寺は斑鳩の里でも北方にあって、土地の名に拠って、「三井寺」とも呼ばれています。
法隆寺を訪れるとき、偶然にも寺の前を通り、法輪寺という寺であることを知り寄ってみたのが最初の参拝でした。
三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より、三つの井戸をこの地にお移しになった頃から起こったと伝えられています。
当寺の創建につきまして、一には聖徳太子の御子・山背王がご建立せられたと伝え、「聖徳太子伝暦」並びに、「太子伝補闕記」には、百済開法師・円明師・下氷新物等三人合力して、造寺されたと記されています。
伽藍配置は、法隆寺式で、昭和25年、石田茂作博士により、発掘調査され、法隆寺西伽藍の三分の二の規模である事が判明し、又出土した鐙瓦の蓮華文、宇瓦の忍冬唐草文までが、法隆寺のそれと酷似しています。
法輪寺が現在のような規模になってしまったのは、江戸時代の正保2年の台風によるもので、伝わるところでは、金堂・講堂・中門・廻廊・食堂等、諸宇、悉く倒壊し、ただ三重目を吹き飛ばされた、三重塔が残ったのみだったとの事です。元文2年、宝祐上人が、復興に着手され、先ず三重塔が修理され、金堂・講堂などが新しく建てられましたが、昭和19年に至り、またしても雷火にて三重塔が焼失してしまいました。
斯くの如き重なる悲運に遭遇したが、支援を募り昭和50年4月再び甦りました。<この時幸田文などが参画した>
ご住職の熱心なご説明に感謝し寺を後にしました!
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