須坂で1番親しまれている里山 鎌田山(通称かんだやま)の想い出!雑感!そのⅡ

(文章内容は、そのⅠと同じです!)

須坂市の最東端に鎌田山(通称かんだやま)という里山がある。この山は精々80m[市役所の辺で標高350mだから、神田山の標高は430mくらいだ]くらいの山であるが、須坂小学校、常盤中学校、須坂東高校の児童・生徒にとっては、すごく身近な山である。私もこの小学校、中学校の卒業生であるが、在校時には、昼休みや、放課後よく登ったものだ。3校とも、かんだやまの直下に存在する。

この山から、坂田山、明覚山、奈良山(なろうやま)、悪婆山、破風岳、御飯岳、黒湯山と山並みを連ね、遠く白根山に行きつく。もうそこは群馬県である。鎌田山は、まさしくこの山塊の最西端に位置し、須坂市街地との接点の山なのだ。


この山は小学校時代のまさに遊び場で、放課後になれば、悪ガキ(北信では、がたく坊主と呼び、勿論小生も、その中の1人であった)仲間と度々上り、[簡単に登れたので、頂上という意識はなく、他の遊び先の通過点くらいに思っていた]、そのまま反対側に下り、鮒池や洞窟に行って遊んだものだ。

この洞窟とは、戦時中、軍の送信施設(二号倉庫)として作られたもので、三本掘られ、内部で連絡していたという。主要部はほぼ完成、全体的には70%までは完成していたそうだ。敗戦時には通信用機材の組み立てが完了し、山頂にアンテナを立てるだけになっていたとのことだ。

当時は山腹に3つほど穴が開いていて、別に進入禁止などの処置はされていなかった(と思う)ので、我々悪ガキはそれこそ格好の遊び場として度々訪れていた。洞窟の中は、途中で曲がっていて、そこからは真っ暗になっていたので、そこら辺から、ススキや、杉の枯葉などを集めて、束ねて火を点け、それを頼りに奥に進んだ。「洞窟は完成して内部で繋がっていたという資料」もあるが、当時の記憶では、ただの洞穴で、人工的な感じは無かったように思う。中は真っ暗で、ひんやりしていて、正直なところ、中に居るのは心細かったが、怖さ見たさで、何回も中に入った。現在は中央の壕しか壕口は見えず、埋もれてしまっている。残った壕は、京都大学防災研究所の地震計が設置されているが、まだ使用されているかは不明。もちろん内部に入る事は出来ないし、行ってもセントル巻きの入り口が見えるだけで鉄扉で閉ざされているので勿論中には入れない。

まあ洞窟探検の他に、池や神社などもあり、釣りをしたり、境内にあった蟻地獄などを面白がって壊したりもした。林の中にはキノコ、アケビなども出ている時もあり、兎に角いろいろ遊びまわっていた。


偶に昔を思い出して、鎌田山に登ったり、鮒池辺りや、吉向焼の跡や咲き誇った桜などを見たりしているが、昔みたいに、小学生や中学生に逢ったことは一回もないなあ!現在の須坂小学校も、全校で、500人くらいだというから、まさに少子化の現象なのだろう。小生の在学中は1500人くらい居たと思う。まあ現代っ子は、昔の「がたく坊主」⇔(やんちゃな子供の意)みたいに、山に登り、林の中を彷徨い、冒険したり、鮒なども捕まえるという様な事もないのだろう!


かんだ山の裏側に、坂田風の子保育園という未だ新しい保育園があるのだが、この園児とは縁があるのか、かんだ山に登った時に3回ほど逢ったことがある。先生が、出来るだけ自然に触れさせようと、山に登らせているのだと思うが、園児たちは頗る元気がよく、口々に、「こんにちは!」と声を掛けてくれる。途中で拾った木の葉などを「お母さんへのお土産!」などと見せてくれる。園の名前のごとく、まさに「風の子」で、すこぶる元気がいい! 自然に接するという事は子供の成育には非常に良い影響を与えるそうだ。


この鎌田山通称かんだ山は、須坂小唄にも歌われている。この須坂小唄は、製糸工業華やかし頃作られたもので、作詞野口雨情、作曲は中野市出身の中山晋平である。冒頭にいきなり、「やまの(かんだ山)上から、ちょいと出たお月」と神田山が登場する。続いて「誰を待つやら、待たれるか!」と続き、最後に「カッタカタのタ、そりゃ カッタカタのタ」と合いの手が入る! この擬音は、蚕玉から糸を取る時に、糸を巻き取る歯車が「カタカタ」回る音を表現しているのです。7月に「すざかカッタカタまつり」が催されますが、市民が参加して、この須坂小唄を踊ります。

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