信玄vs謙信の一騎打ちの場 八幡原史跡公園(川中島古戦場)を散策する! 

信玄vs謙信の一騎打ちの場 八幡原史跡公園(川中島古戦場)を散策する!

 

長野IC(長野道)を降りて、長野市内方向に走り、18号バイパスとの交差点の手前右側に松林に覆われた八幡原史跡公園(川中島古戦場)があります。

川中島とは、千曲川と犀川に挟まれた流域(長野市大豆島で合流します)のことを言い、ここを舞台に所謂川中島合戦が戦われました。これは甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が北信濃の覇権を争って戦った日本の戦国時代の中でも有名な戦いの一つです。両者の争いは、1度ではなく12年の間に5度繰り返され、その中でも最大の戦いが4度目となる永禄4年(1561年)8月の合戦です。この八幡原一帯で壮絶な戦いが繰り広げられ、両軍あわせて8千人にも及ぶ戦死者、約2万名の負傷者を出した上、武田軍副将・武田典厩信繁、山本勘助ら勇将が戦死しました。

現在合戦場の八幡原の一部は史跡公園として昭和47年に整備されて市民の憩いの場所になっていますその中には、八幡原神社があり、ここを中心にして園内には幾つかの合戦に纏わる見どころがあります。一番世に知れているのは、信玄、謙信の一騎打ちと言われる場面を表した像です。この合戦の最中、武田本陣が手薄になったところへ単騎で謙信が、信玄めがけて突進し、3度に亙り切り掛かりました。信玄は軍配団扇で防戦し難を逃れましたが、傷を負ったと言われています。その場面を表現した像が本殿左手前にあります。

また信玄が、謙信に挑みかかられた際、武田軍の原大隅守が槍で防戦しましたが、槍が謙信を外れて馬に当たり、驚いた馬が謙信と共に走り去ってしまいました。原大隅守は謙信を取り逃した無念さから近くにあった石を槍で突き刺したと言われ、その跡がある石[執念の石といわれています]が今に残っています。

他にも合戦で落命した兵士を埋葬した首塚があります。激戦の果ての戦場に散った躯を、川中島古戦場武田方の高坂弾正が敵味方の区別なく埋葬しました。それを伝え聞いた謙信は非常に感激し、塩が不足していた敵の武田方の領地甲斐の国へ塩を贈ったとと伝わっています。このことが「敵に塩を贈る」と言われる故事の由来となっています。

川中島古戦場は、この様な史上稀にみる激闘の場だった訳ですが、史跡公園の松林や、八幡社の静かな佇まいからは想像できない静かさです。

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