沖縄戦孤児伊地文夫さん! 祖父の手記=「戦争は狂気を狂気としなくなる!」、次世代に訴える! 「戦争は絶対してはいけない!

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沖縄戦孤児伊地文夫さん! 祖父の手記=「戦争は狂気を狂気としなくなる!」、次世代に訴える! 「戦争は絶対してはいけない!」

 

<沖縄戦>「狂気を狂気と…」孤児、祖父の手記を次世代に

祖父朝義さんが残した手記を手にする伊地文夫さん=高松市牟礼町で、岩崎邦宏撮影

◇沖縄戦で祖父母と父を失った高松の元高校教諭

20万人以上が犠牲になったとされる沖縄戦は23日、組織的戦闘が終わって72年を迎えた。高松市牟礼町の元高校教諭、伊地(いち)文夫さん(78)は沖縄戦で祖父母と父を失い、戦後まもなく母も病死した。引き取られた親族宅で、祖父が避難先の壕(ごう)などで手帳に記した手記が残っていると知った。伊地さんは祖父の遺品を手に、「過去に無関心であってはならない。戦争は知らないうちに始まり、狂気を狂気としなくなる」と訴えている。

 

◆沖縄戦 「鉄の暴風」死者20万人◆

 

伊地さんは那覇市で祖父母、両親、兄妹と7人で暮らしていた。戦況が悪化した1944年9月、母、兄妹と4人は貨物船で連れ立って熊本へ。学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈された直後で、「恐怖のどん底だった」。貨物船は夜に島影の間を蛇行して進んだ。

 

熊本へは無事にたどり着いたが、沖縄に残った家族には悲劇が襲った。周囲の住民によると、父朝啓(ちょうけい)さんは45年5月、沖縄南部の旧玉城村(現南城市)の壕に避難しようとしたが人が溢れて入れず、米軍の艦砲射撃で死亡。一緒だった祖母オトさんも未だ遺骨が見つからないままだ。祖父朝義(ちょうぎ)さんは敗戦半年後、米軍の収容所で落命した。

熊本などでの疎開生活は2年3カ月に及び、伊地さんは沖縄戦を直接体験していない。親族の支援で広島大に進学し、教員になった後に親族から祖父の複数の手記を受け取った。そこには、暗い壕などで記された生々しい戦争が記されていた。

 

「壕生活服ヤクモ出来ズ(略)居モ不自由不潔ナル空気ノ中ニアリ(略)之モ戦争ノ犠牲カ」。45年5月10日、那覇市内の壕をこう表現した。

「鉄の暴風」と言われた米軍の砲撃は「バクゲキ艦砲始マル イツニナツタラ勝敗ガツクモノカ」と記した。家族を失った悲しみは「妻も子も無手で艦砲に失せにけり」と綴った。祖父は敗戦後、米軍収容所で伊地さんに宛てた手紙で「朗らかに兄と家を興せ」と、平和への思いを書いていた。

 

伊地さんは「厳しい戦争の時代があったことを伝えていくことが、二度と戦争を起こさないためのブレーキになる。手記を子や孫に引き継いでいきたい」と思っている。

 

 

記事・画像 引用・参考元 Yahoo News <毎日新聞>【岩崎邦宏】

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170623-00000004-mai-soci

画像元 yjimage

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