墨坂神社 須坂には墨坂神社が2社存在する! 奈良県宇陀市の「墨坂神社」より、墨坂大神を分祠!その関係に興味しんしん!?

歴史探訪

墨坂神社 須坂には墨坂神社が2社存在する! 奈良県宇陀市の「墨坂神社」より、墨坂大神を分祠!その関係に興味しんしん!?

 

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須坂市には墨坂神社と称すお宮が2社あります。ものの本によると、奈良県宇陀市榛原萩原字天野に墨坂神社が存在し、須坂墨坂2社のご本社だと言われる。天皇軍東征のみぎり、大和菟田の高倉山から国見をすると、賊軍が天皇軍を防ごうと墨坂に”いこり炭”(山焼きの意味)をもって防戦したため、菟田野川の水をもっていこり炭を消火し、敵の不意を打って勝利した。墨坂の名はこの故事にちなむと、その名の由来が記されています。その墨坂社のご分社が、しかも2社が、須坂にあるのは、どういうご縁なのか前々から興味を持っていた。一説によると、墨坂大神を祀る社は3社のみという説もあり、そうだとすると一層の興味を持たざるを得ない。「何故須坂だったのか!? それも2社あるのか」と。

さて本日この墨坂八幡社の脇道を走っていたら、神社の杜に中に、黄色い帽子を被った園児の元気の良い、声や、姿が見えたので寄ってみた。境内には、30名くらいの園児がおり、元気に飛び回っていた。小生の姿を見て、元気に挨拶をくれた。また撮影をしていると、カメラの真正面に来て、ポーズをとったり、飛び跳ねたり、実に元気が良い!子供は斯くあるべきである! 小さい頃から、近所の神社仏閣に来て、神仏に親しむということは実に良いことだ。

 

ここで墨坂神社について一寸言及してみようと思う。

『延喜式神名帳』にある「墨坂神社 (信濃国・高井郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社。旧大字小山八幡の地。創建年代は不詳。一説に、飛鳥時代の白鳳2年(674年)という説あり。

 

住古、大和部族移住に際し、大和国宇陀郡榛原より墨坂神を遷祀した。御祭神は墨坂大神。墨坂大神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・大物主神の6柱の神々の総称とされる。奈良時代後期の天応元年(781年)10月14日、神封一戸を賜る。平安時代の貞観2年(860年)10月15日、男山八幡より帯中津日子尊・気長足姫尊・品陀和気尊の八幡神を勤請し、以来、墨坂神社八幡宮と称した。旧地名の八幡(現在は墨坂町)しかり、以後、そして現在に至るまで八幡社、八幡神社と呼ばれることが多くなった。八幡墨坂神社とも称される。

『延喜式神名帳』では高井郡の筆頭であり、のちに郡の一宮(一之宮)に定められた。なお、式内論社は他に、芝宮の同名神社がある。八幡勧請以外、ここまでの由緒は両社共有している。(即ち信州須坂には「墨坂神社」が2社存在する)

 

社家の山岸氏は勅使の巡国の際、郡内を御供したと伝わる。鎌倉時代に入り、武将の神田の寄進など、崇敬が篤くなり、武田信玄も祈願状を寄せて武運長久を祈ったという。領主の須田氏は産宮として、多数の神器を奉納した。江戸時代になり、須坂藩の藩主家である堀氏にもやはり崇敬され、祈願所と定められた。年間の祭事料として籾1石2斗5升、人足4人が遣わされ、2代藩主堀直升は3石を寄進した。結果、わずか1万石の小藩でありながら、寄進高は8石余りとなった。

明治になるまで、10日間の大祭中には日市、馬市、大角力芝居、競馬などが行われ、番所が設けられて、藩より重職が出張して警護にあたった。

 

昭和3年に県社に列した。現在までに、天照大神を併せて祀り、健御名方命を配祀、菅原道真・火産霊命などを合祀している。例祭は9月14日-22日。

 

拝殿の近くに、若宮社(大雀命)、高良社(武内宿禰命)、養蚕社(大宜津比売命)があるが、若宮社は高梨氏の守護神として信仰されたという。

他の境内社に、参道の弁天社(市杵嶋比売命)、祖霊社(山岸大祖)、伊勢社(天照大御神)、天神社(菅原道眞)、稲荷社(宇賀魂命)、山神社(大山祇命)、松尾社(大山咋命)、諏訪社(健御名方命)、飯綱社(宇氣母智命)がある。

 

1.5ヘクタールの撞木形境内には、ケヤキなどの大木や古木が鬱蒼とした社叢を形成しており、市の天然記念物に指定されている。

 

【奈良県宇陀市墨坂神社】奈良県宇陀市榛原萩原字天野

 

日本書紀の、神武天皇即位4年春の詔に「乃立霊畤於鳥見山中、其地号曰上小野榛原・下小野榛原 用祭皇祖天神焉」の記載があり、神武天皇みずから鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、皇祖天神を祭祀し、「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)、下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とあります。その上小野榛原が当地墨坂の地であり、現在は宇陀市榛原西峠地区内にあります。

また、同紀の神武天皇即位前紀の条には天皇軍東征のみぎり、大和菟田の高倉山から国見をすると、賊軍が天皇軍を防ごうと墨坂に”いこり炭”(山焼きの意味)をもって防戦したため、菟田野川の水をもっていこり炭を消火し、敵の不意を打って勝利した。墨坂の名はこの故事にちなむと、その名の由来が記されています。

 

天武天皇白鳳元年(673年)には大來皇女を使者として金幣帛一対を奉幣されたとも伝わっています。

 

墨坂神社は当時から祀られていた神々を文安6年(1449年)9月28日に上榛原天の森より下榛原天野(現在の宇陀市榛原萩原天野)に遷座されたものです。この天野の地は天富命の蹄跡とも伝えられ、明治初期までは神仏混合により偏照山薬王院天野寺として祀られており、六社権現または天野宮とも称されていた。

また、玄松氏の記憶HP「宇陀墨坂神社」によると、「・・・新抄勅格符抄によれば天應元年(西暦781年) 「墨坂神一戸信乃」とあり長野県須坂市に御分社が2社ある」と記されている。

 

 

記事引用・参照 参照神社と古事記

墨坂神社 長野県須坂市墨坂 : 神社と古事記
飛鳥朝創建、平安期に八幡を合祀、武田信玄や藩主堀家の崇敬[住所]長野県須坂市墨坂1-8[電話]026-245-5763

墨坂神社(宇陀)HP

墨坂神社
日本最古の健康の神

玄松氏の記憶

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