連れて逃げてよ~🎶 ついておいでよ~!♬ 🎶 🎶 そんな歌をよそに! こちとら「しがねえ一人旅」でござんす! (;´д`) トホホ!
フーテンの寅さんって言えば、そりゃあ!「葛飾柴又・・」その名の通り、京成「柴又駅」の改札口前の広場には、例のトランク片手に持った銅像が立っています。そこから即、葛飾柴又帝釈天様に向かって、参道が通り、両サイドに古くからの土産物屋、団子などを売る店が軒を並べている。
言わずと知れた、「男はつらいよ!」シリーズのホームグラウンドになったところで、今にも寅さんが、「お兄さん方元気かい!?」などと、手を挙げて、細い目をこっちに向けそうな雰囲気が漂う。
さて本日は、帝釈天を参拝に来たことは来たんだが、裏手に江戸川が流れていて、そこには、「連れて逃げてよ~🎶 ついておいでよ~!♬ 🎶 🎶」で有名な、「矢切の渡し」があって、未だに(観光用だが)小舟が往ったり来たりしているので、それについて、書いてみようと思う。書くといっても、その時撮った画像を並べるだけの話だが、雰囲気は伝わるのではないかと思う。
その前に一寸遅くなってしまったが、寅さんの啖呵売を記しておこう!
「私、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。
姓は車、名は寅次郎、人呼んで風天の寅と発します。
皆様共々ネオン・ジャズ高鳴る大東京に仮の住居罷ります。
不思議な縁もちましてたった一人の妹のために粉骨砕身、
売に励もうと思います。西へ行きましても、東へ行きましても、
とかく土地土地のお兄さんお姉さんに御厄介掛けがちなる
若造でござんす。
以後、見苦しき面体お見知りおかれまして今日後万端
引き立って宜しく御頼ん申します。
さて帝釈天を後にして、すぐ後ろ手に、土手が見えますが、これが江戸川でござんす! 対岸は千葉県は、市川市でござんす!河原は結構広くて、アベックやら、子供連れで、結構賑わっておりやす。さて寅さん口調もちょいとばかしきつく成ってきたので、ここ等辺で、矢切の渡しについて、ご説明しておきましょう!小説「野菊の墓」や、歌謡曲「矢切の渡し」で有名な唯一現存する江戸川の農民渡船で、矢切と葛飾区柴又を結んでいます。
渡し場の歴史は古く、記録に残る範囲では天正 18年(1590年)の、家康の江戸入府時代に溯る。 自然のままに流れ、反乱を繰り返し、洪水を起こしては作物が流され、稲穂を泥水の底に沈め百姓達を大いに嘆かせた。
家康はこれらの河川の治水事業に取組み、また新田開発にも力を入れた。また同時に陸路に比べて安価で大量の物資を運搬することが出来る水運にも注目し、人口の河川、水路が多く作られた。これには、同時に、河川を利用しての江戸の守りを強固にする為の堀という意味があり、そのためこれらの川には橋が架けられなかった。また技術的な面でも難しかったのではと思われる。
慶長 5年(1600年)関ヶ原の合戦に勝利し、元和元年(1615年)大坂夏の陣の翌年には、北からの守りを固める為に、利根川水系を渡る重要な街道の15か所を定船場に定めて、これら以外のところでは川を渡ることを禁止し、また定船場には番所を置いて通行人を調べるようになった。このころから、渡し場が交通や農民の対岸の農地への移動手段といった趣から、通行所であり関所であるという性質を強く持つようになった。(御番所のち御関所と言われた)
現在の矢切りの渡しの前身である、金町・松戸の渡しもこの時整備され、利根川と江戸川が分かれる境町・関宿の渡し、小岩・市川の渡しなども同時期に整備された。関所の周囲は木の柵で厳重に囲まれ、木戸の脇には関所が設けられた。関所を往来するものは頭巾、笠などを取ること。乗り物に乗るものは、戸を開いて行くことという厳しいお達しがあった。
関所を通過できるのは、午前 6時から午後6時までだったが、近郷の百姓や勅使、藩主、幕府役人、御朱印携帯者などの特別な者は時間外でも通行を許されたという。関所が出来る以前からも村人達は対岸へ渡っていたため、近郷の者のみはそういった船での渡河は認められていた。
ただそれ以外の者の渡河は堅く禁じられていて、近郷の者が渡るには通行手形などはいらなかったが、一般の者が渡ると関所破りとして厳しく罰せられた。
小岩市川の関所では、関所破りで処刑されたという話しが伝えられている。相の川(現在の国道 14号線、市川橋の川下7キロ程度の場所。現在の地名は相之川町。明治時代になって今井の渡しで結ばれ、現在は新今井橋が開通している)において下総小弓城(千葉市生実町にあった)の家臣久三郎という者が女性を連れて、婦人禁制の江戸川を渡ろうとして船頭 2人とともに4人は役人に捕まり、張付けの刑に処せられたという。こういう不届き物が結構横行していたと見え、こういった不法渡河者を見つけ、捉えて差し出した者には褒美を取らせると触れを出したりもしていたという。
【矢切の渡し】
10時00分~16時00分
運行日 3月中旬~11月 毎日
12月~3月上旬 土・日・祝日
※荒天時は運休、1月1~7、帝釈天縁日の日は上記に関わらず運行
料金 中学生以上200円、4才から小学生100円
電話番号 047(363)9357 船頭(杉浦氏)
ホームページ あるようだが不明(調べもせずに怠慢ですみません!)
小生は、神社仏閣名所旧跡、イベント、まつり、行事、そのた何でも見に行くのが好きなのだが、写真を撮るだけで、実際に自分が体験すること等は滅多にないのだが、この渡し舟には、珍しく乗ってみようと思った。
所用時間は5・6分という短さだが、「連れて逃げてよ!ついておいでよ!」の例の歌の主人公達は、さぞかし時の経つのが長く感じたに違いない。
対岸は千葉県市川市である。河原は東京川と違って、見渡す限り畑になっている。また引き返すのもなんだと思い、そのまま遠くに見える土手を目指して歩いてみた。市川市の国府台という辺と見当をつけ、歩いて行ったら、伊藤佐千夫の「野菊の墓」の碑などが出てきた。案内板に沿って大分歩いたが、下矢切の西蓮寺に土屋文明氏の直筆の書により彫られた文学碑などを見ることが出来た。ここ等辺には、ほかに神社仏閣名所旧跡なども結構あり、歩くのも苦にせず、京成間々駅まで歩くことが出来た。
何時もそうなのだが、常に思い付きで、動くので、後で振り返って、地図などを見ると、結構見落としもあり残念に思うことがしばしばある。しかし予め調べていくというタイプでもないので、仕方がないと思っているが、これでも結構コースとして様になるので不思議である。
記事引用・参照元
☝ 矢切の渡しの歴史的記述部分 引用 させていただきました!
画像 オリジナル
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