【神社仏閣めぐり】日本最古の官立寺!聖徳太子創建の四天王寺に参拝する!
四天王寺は、中学の社会科で、① 聖徳太子の創建 ② 四天王寺式伽藍配置 ③ 最古の官立寺ということを習い、頭に残っていたので、関西に転勤になったのを機会に、是非行ってみたい寺の1つだった。大阪には月1回、会議で来ていたのだが、1日時間をたっぷり取って、参拝したいと思っていた。
アパートは高槻市だったので、そんなに時間が掛からないで行くことができた。五重塔が見えたので、それを目標に進んだが、南大門ではなく、本坊西通用門に出てしまった。回り込むのも、距離があるようだったので、この門から、境内に入った。
【四天王寺】
山号 荒陵山(こうりょうざん)
宗派 和宗
寺格 総本山
本尊 救世観世音菩薩
創建年 推古天皇元年(593年)
(『日本書紀』による)
開基 聖徳太子
別称 金光明四天王大護国寺
札所等 聖徳太子霊跡1番,新西国三十三箇所1番,近畿三十六不動尊1番,法然上人二十五霊跡 6番,西国薬師四十九霊場16番,摂津国八十八箇所25番,神仏霊場巡拝の道 第43番,西方四十八願所44番,西山国師遺跡霊場客番,西国三十三所番外,四国八十八ヶ所霊場番,ほか。
文化財 紙本著色扇面法華経冊子5帖(国宝)ほか
六時堂(重要文化財)
絹本著色両界曼荼羅図(重要文化財)ほか
八角亭(登録有形文化財)
地図
四天王寺は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されと伝わる。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様式とされている。
行きたかったという割には、事前準備をした訳でもなし、例によって、行き当たりばったりの参拝になってしまった。四天王寺は最古の官立寺という、歴史のある寺院で、見どころは随所にあった。火災や、戦災、台風などに遭い、伽藍は度々喪失したが、その都度再建された。現在は鉄筋コンクリート造りになっているが、創建当初の形を再現しているという。
境内には塀沿いホームレスの段ボールハウスなども散見されたが、四天王寺としては、特に咎める風もなく、寛容さを感じさせた。もともと四天王寺は、四箇院伝承というものがあり、それによれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。
敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られる。 施薬院は、後に聖徳太子が『勝鬘経』を講じた地だとする伝承があり、勝鬘院(愛染堂)が故地と伝えられている。寺には本来、救済の意味もあるが、四天王寺は四箇院の精神が脈々と流れていることもあり、ことのほか色濃く残っているのだろう。
参拝客も多く、聖徳太子の寺と親しまれる四天王寺のことはあると思った。
参考
- 四天王寺HP
- wikipedia
画像 小生オリジナル (2001:02:18 京都支店在任中撮影)
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