【神社仏閣めぐり】普代村「鵜鳥神社」を参拝する!宮司さんに「曰くいわれ」についてご高説を戴く!
国道45号線を、太平洋を右に見て北上する。すると普代村という案内板があり、暫く行くと駅があったので車を降りてみた。「ふだい」という名前に興味を持った。「譜代大名」の「ふだいだよなあ!?」 駅はヒッソリしていて、人の気配はない。さてさて今普代村に立っているが、この先どうするか、例によって、行き当たりばったりの旅、何処へ行くか自分でもわからない。「宮古は既に行ったしなあ!」
駅の案内板には、「鵜鳥神社」と書かれてあったので、「よし!ここに行ってみよう!」と思った。普代村中心地から北上し、適当に車を走らせていたら、国道45号線脇に大きな鳥居が現れた。鵜鳥神社(うのとりじんじゃ、うねどりじんじゃ)は、藩政時代には卯子酉神社と呼ばれていた。分霊神社も遠野市の卯子酉様等11社以上存在する。
この鳥居を潜り車で、10分で鵜鳥神社(遥拝殿)に着く。また、遥拝殿山門から徒歩で参道を登ること15分、卯子酉山山頂付近に本殿がある。縁結び、安産祈願、海上安全、豊漁の神として古くから岩手県内はもとより他県まで広く尊崇されている。本殿の先にはお岬様と呼ばれる石の祠があり太平洋を一望できる。古くは海上からの目安であったと言われている。
【由緒】
義経北行伝説のコースの一つとされる。伝説では、史実にて義経主従が落命したとされる平泉(1189年、衣川の戦い)から密かに脱出し、翌年に辿り着いたこの地で「七日七夜にわたって、海上安全、武運長久、諸願成就を祈り、社殿を建立し、祭典を執行するよう命じた」と伝えられている。
【歴史】
開山は大同2年(807年)とされる。奥宮とも呼ばれる本殿は寛政4年(1792年)と明治35年(1902年)に2度火災に遭い、神殿は明治45年(1912年)に、拝殿は昭和8年(1933年)に新築された。
この地方に伝わる源義経北行伝説によると、蝦夷地を目指す途中の文治5年(1189年)この地を訪れた義経は卯子酉山で金色の鵜が子育てをしているのを見て神鳥であると思い、七日七夜にわたり海上安全、武運長久、諸願成就を祈ったところ、「汝の願いを聞き届けよう」との神のお告げがあり、感謝した義経は鵜鳥大明神として山頂に社殿を建立して祀り、翌年から祭典を執行する様命じたと言われ、現在も旧暦4月8日に例大祭が行われている。
この例大祭でも奉納される鵜鳥神楽は宮古の黒森神楽とともに、岩手県沿岸部で「北の鵜鳥、南の黒森」と呼ばれ、隔年で交互に北回り、南回りの巡業が行われています。国の無形民族文化財に指定された。
遥拝殿は、独特の形をしており、見方に依れば、古民家風の建物みたいな独特の形であった。中に入り、参拝していると、男の方に声を掛けられた。普通の格好をされていたので、ご近所の方かと思ったが、どうやら宮司さんであった。神社の由緒・お神楽、義経伝説などのお話を聞かせて戴いた。
話の途中で、「ちょっと待っていてください」と宮司さんが、住居に戻られた。暫くすると、黄色の表紙のかなり分厚い本を持って戻ってこられた。「いろいろな神社やお寺を巡っておられるようなのでこれを差し上げます」と仰られた。鵜鳥神社の由緒・歴史などが、記された宮司さんがお書きになった貴重なご本であった。丁重にお礼を申し上げて鵜鳥神社を後にした。
相も変わらずの行き当たりバッタリの「みちのく一人旅」の悲しさ、格好としては一応どうにかなったのであるが、行ったのは「遥拝殿」であって、今回も山頂の本殿(奥の院)を見落とし、誠に中途半端な拝観となったのは残念な結果となった。
岩手県は、県レベルでは、日本一の面積の件である。盛岡に帰るのも、120・30kmは優にある。今日の宮司さんの話などを思い出しながら夜道を盛岡に向かって走らせた。
記事・引用・参考元
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