「切腹」の作法って知ってる? 腹を切っただけではなかなか死ねない…【歴女内科医・まり先生の歴史診察室】
忍者とメガネをこよなく愛する歴女内科医・馬渕まりが、偉人たちを歴史的状況から診察し医学に基づいてまじめに論じる!
今回のテーマは「柴田勝家と切腹」
歴史好きの中でも、とりわけ戦国時代は人気があります。武将たちの武勇伝や政治力に憧れ、少しでも彼らに近づきたい。そんな風に思われる方が少なくないようですが、彼らをどれだけ尊敬していても、絶対に真似できないのが「切腹」でしょう。
刀をお腹に突き刺し、自らググッと十字に切り裂く――。
想像しただけでも恐ろしいですが、以前、戦国好きの知人からこんな質問を受けたことがありまして。
「柴田勝家が切腹したとき、ハラワタをひきちぎって、秀吉に投げつけるシーンを漫画で見た。アレって医学的には可能なの?」なるほど、これは(医学的には)面白いテーマ。早速、柴田勝家さんに絡めて診察してみましょう。
◆切腹が名誉の死とされたのは高松城主の清水宗治から
切腹の起源そのものは、実は平安時代に遡る。武士の時代の鎌倉辺りから始まったのかと思いきや、意外と古いんですね。ただし、近世に入るまでは、あくまで自決の一手段に過ぎず『名誉な死に方』という概念はなかった模様。大きな転機が訪れたのは戦国時代、備中高松城での戦いからでした。豊臣秀吉が水攻めを敢行した、現・岡山県のお城です。このとき秀吉は、本能寺の変を知って慌てて畿内へ戻らねばならず、急遽、敵の毛利方と和睦を果たすために出した条件が、同城主・清水宗治の自害でした。逃げたい方が切腹を命じるなんて、何だか不条理な話ですが、ともかく、宗治は水上に船を出してその場で潔く腹を切り、介錯人に首をはねられました。これには秀吉をはじめとする武将たちは大いに感銘。以降、切腹は『名誉な死に方』とされるようになったと伝わっています。
◆クロスに切り裂く「十文字腹」 内臓をつかみ出す「無念腹」
さて、そんな切腹ですが、江戸時代に入って武士の処刑法として定着しますと、同時に作法も確立されていきました。沐浴やら末期酒やら死ぬ前の部分を省いて説明しますが、切腹人が腹を一文字に切ったところで介錯人が首を落とすのがスタンダード。時代が下って江戸中期に入ると簡略化され、切腹人は短刀ではなく扇子を使い、その扇子に手をかけようとした瞬間、介錯人が首を落とすという方法が一般的になりました。なぜこんな方法になったのか。『切腹だけだと、痛くて苦しい上になかなか死ねない』からです。出血多量で早目に死ぬには「腹部大動脈」を切れば良いのですが、腹部大動脈は背骨の横あたり(腹側から見るとかなり深い部分)を走るため、傷をつけるには相当な気合が必要。肉厚なおデブさんにはまず無理です。また、中途半端に腸を斬ると即死はせず便が漏れ出し、腹膜炎→敗血症で相当悲惨な死に方をしてしまいます。それも数日かけて!
そのため、もしも介錯なしで切腹する時には、ある程度刀を刺したところで、今度は喉に持っていき、頸動脈を掻き切って死ぬ場合が多かったようです。喉元なら走行が浅いので、即死に近い状態で死ねます。
なお、戦国時代末~江戸初期までは、介錯人が付かずに自力で切腹した方も多くいたようで『腹を十文字に切り裂く・十文字腹』や『内臓を掴み出す・無念腹』といった過激な方法も残っております。まさに、漫画の柴田勝家さんの死に方と一致しますね。
◆十文字に腹を切ったあと、五臓六腑を掻きだした
柴田勝家は、信長の父・織田信秀の代から仕える武将でした。一時は、信秀の次男(つまり信長の弟)信勝の家老となり、信長に対し反旗を翻しましたがこれに敗れ、後に軍門に下ります。そして『鬼柴田』と異名をとるほど武勲をあげ、織田家の筆頭家老に上り詰めました。しかし、北陸攻めの最中に起きた本能寺の変では、光秀討伐に間に合わず、織田家臣団での発言力を秀吉に抜かれてしまいます。とりわけ、織田家の後継者を決める『清洲会議』で、信長の三男・信孝を推しながら、秀吉が擁立した三法師(信長の長男・信忠の息子)に敗北したのが大きかった。
信長の妹・お市との結婚が決まったのを勝利と見る向きもありますが、その後、日の出の勢いの秀吉には敵わず、結局、賤ヶ岳の戦いを機に切腹へと追い込まれていくのでした。さて、そこで問題です。漫画のように「勝家がハラワタをひきちぎった史料は存在する」のか?と、困っていたら『柴田退治記』にそれを匂わせる記述がございまして。私の現代語訳で強引に進めますと、勝家はまず「腹の切り様を見よ!」と左手で脇差を突き刺し、右手で背骨側に引きつけて切り、返す刀で心下から臍下まで切り裂いた(十文字腹)とのことです。
ただ、これだけでは終わらず、さらに五臓六腑を掻き出して(無念腹)、家臣の中村文荷を呼んで首を打つように頼んだとのこと(文荷は後ろにまわって勝家の首をはね、文荷もその太刀で腹を切って死にました)。「内臓を投げた」とは書いていません。が「内臓を掻き出して」はおりますね!まさしく、秀吉に対する、どうにもならない無念の怒りが蘇ってくるかのような記述。そしてそれは、勝家が後見人となっていた織田信孝にも、同じような現象が見られるのです。
◆勝家以上に激しい信孝の死に様
信孝は、織田信長の三男として永禄元年(1558年)に生誕。次男の信雄より20日早く生まれたのですが、母の身分が低く、報告が遅れたことで三男にされてしまったと伝わってます。それがなぜ柴田勝家との関係が深いのか。と申しますと、実は勝家は、信孝の烏帽子親でもあるのです。烏帽子親とは、元服の際に行われる儀式で、実質的には後見人という立場を表明するもの。そしてその後、信孝は、紀州征伐や荒木村重討伐などで実績を残していきました。しかし! これまた勝家と同様に、本能寺の変では光秀討伐で秀吉に遅れを取り、山崎の戦いでは名目上だけの総大将に終始。来たる賤ヶ岳の戦いでは、岐阜城で兄の信雄に囲まれたまま何もできず、秀吉に降伏するしかなかったのです。敗戦後、信孝には呆気なく自害の命が下されました。死に場所は、その昔、源義朝(頼朝のお父ちゃん)が部下に裏切られて殺されたお寺。いわくつきの場所で腹を切った信孝は、そのとき思わぬ行動に出ます。
なんと、掴みとった自分の内臓を床の間の掛け軸に投げつけたというのです。勝家以上に激しいエピソードですね。
というか、もしかしたら知人が見たという漫画は、信孝と勝家をミックスしてアレンジしたのかもしれません。ともかく信孝の辞世の句は、その死に様を表すかのように激しいものでした。
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
実際、ハラワタを掴んで投げるなんてのは、相当な怒りを持ったツワモノにしかできません。そもそも内臓を掴める程に大きく腹を切れば、痛みや出血などでショックを起こすことがありますし、内臓を支配している迷走神経が刺激されると「血管迷走神経反射」を起こし、血管の拡張により脳血流が保てなくなって失神する可能性があります(採血した後に倒れるあれです)。ただし、副交感神経である迷走神経と逆の作用をもつ『交感神経』が興奮しまくっていれば、これをしのげる可能性もあり、信孝のケースもそうだったのかもしれません。
いずれにしても、昔の人は、その時々の「運・不運」もあったかも知れませんが、不始末や、無作法な振る舞いがあれば、切腹して責任を取りました。今の政治家の、軽はずみな言動や、それを何べん繰り返しても、「職務を全うする」などということで辞職すらしないという時代とは隔世の感があります。言動には責任を・・・!
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引用・参考元 ヤフーニュース<週刊SPA! 11/2(水)> 配信
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