長野に出るために、本日は長野電鉄を利用する。2.3年前までは、車で上京したものだが、近頃は新幹線を使う事が多くなった。
例によって発車時刻も調べずに家を出た。5分も待たずに電車が来た。例によって1番前の車両に乗り込み、「前面展望」の撮影に挑む。
須坂駅を出ると、右カーブに差し掛かり、1本目の踏切を通過する。東山踏切である。その先が、塩川農道10号踏切。昨年暮れから、道路拡張の工事に伴い、新装なった踏切である。日野駅に到着。平日の通勤時間帯なのでホームには結構人が居た。小生が撮影に来るのは、昼の最も乗降客の少ない時間帯が多いので、この朝の光景は新鮮だった。
日野駅の辺からは、長野方向は、直線になっているので、村山駅が見える。既に下り電車が、村山駅ホームに到着しており、この電車の来るのを待っている。村山駅までの2つの踏切は、既に遮断機が下り、警報が鳴っている。日野駅を発車。日野踏切を通過。高梨踏切を超え、村山駅に到着。待機中の下り電車が発車する。
直前の伊勢谷踏切を通過すると、線路は村山鉄橋に向かい、坂を上っていく。線路は段々と国道の方向に寄っていき、やがて鉄橋に吸い込まれて、千曲川を渡っていく。この鉄橋は837mの長さがあり、須坂市と長野市の境にもなっている。
電車から撮影すると、この鉄橋が、道路と並走しているのがよく解る。実はこの「道路・線路並走」という橋は全国的にも珍しい橋なのである。先日「週刊現代」の6月4日号を見ていたら、「往時の面影を訪ねて 鉄道の<記憶>」というシリーズに、この村山橋が掲載されていた。丁度長野電鉄の普通電車が鉄橋を渡るところの写真も添えられ、巾3.5mの歩道と、国道406号線(上・下線が別々の鉄橋になっている)3者が並行している様子がよく解る。
この橋の歴史は古い。江戸時代は橋はなく、「渡し」で対応していた。須坂側の堤防沿いには、嘗て「福島宿」があり、長野側の「長沼宿」へは、舟で行き来していた。明治時代は、小舟を連ねて、その上に板を渡した「舟橋」を作りその上を人は行き来した。大正15年長野電鉄開通の際、道路・線路併用の鉄橋が掛けられた、[この橋は、1つの鉄橋の中に、上・下1車線の道路と鉄路(単線)、歩道<上・下共用>、即ち橋梁は1つであった]
平成21年に、車の交通量が増加したことにより、橋梁を上・下別々の2本にし、全面的に架け替えられ現在に至っている。なお橋の東詰めには、この鉄橋の橋標や、歴史を展示した「メモリアルパーク」がある。
鉄橋を渡り切ると、下り坂になり、国道18号を超え、柳原東踏切を通過すると、長野市柳原駅となる。
ここで撮影を一旦終わらせているので、文章も切り上げるが、ここまでの、駅、踏切、橋、堤防、川の流れ、河原などは、現場(!?)に行って実際撮影をした。その様な場面を、今回の様に電車からみるとまた違った視点で見ることが出来る。
今回は華のお江戸で商談があり出張したのだが、朝も早よから、[無理をして日帰りにしたので]夜遅くまで掛かってしまった。帰ってからも仕事のためのデータの印刷などもあったので、日付けも変わってしまい、「お疲れモード」と相成った。TVコマーシャルではないが、「もう若くはないんだぞ!」というコピーがやけに頭に響いた!
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