浅間山は信州と上野の国の県境に位置する山である。安山岩質の標高2,568mの成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成されており、活発な活火山として知られる。県歌「信濃の国」にも、「浅間は特に活火山」とうたわれている。本日所用で東信の立科町に行ったが、ここら辺はどこからでも浅間山が見える。
浅間山は数10万年前から火山活動が活発であり、近隣の烏帽子岳などの3つの火山と併せ、浅間連峰もしくは浅間烏帽子火山群と称されている日本有数の活火山であり、これまでに幾度も噴火・大噴火と山体崩壊を繰り返し現在の姿となった。大規模な山体崩壊と崩壊土砂が流出した痕跡は、近隣は無論のこと、遠く前橋市の台地上や、沼田市の段丘などに厚い堆積物として残っている。
☝鬼押し出し(背景は浅間山)
現在の火山活動の主たるは前掛火山である。山頂火口からは噴煙があがり、その周りには複合のカルデラがあり、内側の外輪山の西側に前掛山がある。北側のカルデラは山頂部から「鬼押出岩」へと流れ出た溶岩流により崩壊している。外側の外輪山には、黒斑山、牙山、剣ヶ峰などがあり火山特有の奇観を呈している。
1949年(昭和24年)9月7日に一帯は上信越高原国立公園に指定され、さらに2007年、日本の地質百選に選定された。日本百名山、及び花の百名山に選定されている。豊かな自然は数多くの動植物を育み、高山植物、高山蝶、野生動物など貴重な生物が現在でも多数の生息が認められる。独立峰のため山頂よりの展望は360度の素晴らしさであり、遠く白根山、妙義山、荒船山、八ヶ岳、 北・中央・南アルプス、そして遥か富士山も望むことができる。
本日空き時間を利用して、浅間山を撮影したが、時間の制約もあり、ただ撮影しただけの画像ですが添付しておきます。ずっと雨で、夕方止みましたが、ご覧のように、雲が一面にかかり、肝心の浅間山の極一部しか見えないのは「ご愛敬」という事でお許しください。
長野県歌「信濃の国」で、「浅間は特に活火山・・・」とうたわれている。
浅間山は何回も大爆発を起こしており、数多くの古文書に記録されている。群馬県側にある「鬼押し出し」は、噴火の際の溶岩が冷えて固まったものである。また火山の土石流から必死で逃げ、高台のお寺へ駆け込もうとした階段、わずか「15段差」を詰められず、呑み込まれて死んだ村人の骨が発掘された。
8割近くの住民が命を落とした鎌原村
数多の被害の中で、最も大きかったのが上野の鎌原村である。現在、高原野菜の産地として知られる嬬恋村の前身で、浅間山の火口から12キロ離れたこの地には当時597名の住民が暮らしていた。しかし、大噴火が引き起こした土砂のせいで、村の家屋93は全て流失。死者は466名を数え、8割近くの住民が亡くなったのである。この大災害の「爪痕」が、近年の調査で明らかになった。同村の高台にある鎌原観音堂の階段下方を発掘した結果、地中から新たな石段が掘り起こされ、その中から2人の遺骨が出土したのだ。現在の観音堂は、頂上まで15段の石段となっている。が、その下には35段が地中に眠っており、かつては50段だったことが判明した。つまり、浅間山から流されてきた大量の土砂が35段分、約6メートル以上もの高さで付近を埋め尽くしたのである。
調査で発掘された2人の遺体は、重なり合う状態で見つかったことから、片方がもう片方を背負っていたと思われる。背負われていた方の推定年齢は45~65才で、身長は140~145センチ。背負っていた方は推定30~35才で、身長は134~139センチ。2人とも女性で、骨の状態から、激しい農作業に従事していた村人と推定されている。この2人は、親子であったのだろうか。はたまた途中で転んだ人を助けたのだろうか。今となってはその事実は不明だが、両者が階段を駆け上がる途中で土砂に飲まれたのは間違いない。数多くの村民が亡くなったが、鎌原村の生存者90名は、すべてこの高台へ逃れた人たちであった。
鎌原村の項・引用元
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