原発避難者訴訟原告勝ったもの素直に喜べない事情!謂わば笑顔なき勝訴…「苦労報われぬ」
笑顔なき「一部勝訴」だった。17日の原発避難者訴訟の判決で、前橋地裁は東京電力と国の賠償責任は認めたものの、命じられた賠償額は原告の請求からは程遠かった。古里を奪われた代償を求めて3年半。大半の原告が周囲に知られないように名前も伏せ、息をひそめるようにして闘ってきた。「もっと寄り添ってくれる判決を期待していたのに」。原告の顔には落胆の表情が浮かんだ。
■◇認定、137人の半分以下◇■
「国と東電の責任を認めさせた。うれしいのは間違いない」。判決後の集会で壇上に立った原告の丹治(たんじ)杉江さん(60)はこう言った後、言葉に詰まった。「この6年間辛いことばかりだった。納得できぬ……」
原発事故当時、福島県いわき市に住んでいた。夫の幹夫さん(63)はワープロ修理業を営み全国から注文を受けていたが、事故後、「福島にワープロを送るのは……」と敬遠され、注文が激減した。
事故の4カ月後、夫と群馬県へ自主避難した。私たちだけ逃げる選択をした−−。福島にとどまった人たちへの後ろめたさは消えない。それでも「原発事故を繰り返してはいけない」との思いから、群馬県内で脱原発の集会や街頭活動に積極的に参加し、避難者訴訟の原告にも加わった。
原告は45世帯137人。丹治さんを含めほぼ全世帯の代表が法廷に立ち、避難の苦しみや東電と国への怒りを訴えた。しかし、原告の中に名前を公にしている人は殆どいない。
「裁判をしていると周囲に知られたら、子どもが差別を受け、仕事へ影響することを恐れている」ためだ。丹治さん自身も「裁判すれば金(賠償金)がもらえるんでしょ」と、心ない言葉を受けたことがある。
国の指針に基づくと、自主避難の場合、東電からの慰謝料は生活費との合算で総額8万円。原告たちを突き動かしてきたのは「ふるさとを奪われた苦しみへの賠償が不十分」という思いだったが、判決で賠償が認められたのは原告の半分以下の62人だけだった。
「もっと温かい判決を期待していたのに」。喪服姿で傍聴した原告の50代女性は、判決の内容を知って肩を落とした。いわき市で暮らしていたが、事故の影響でパート勤めしていた会社が業績不振に陥り、解雇された。
被曝への不安もあり、夫と共に群馬県へ避難したのは2カ月後。翌年、県の借り上げアパートに入居できて生活が落ち着いた後に夫が悪性脳腫瘍で倒れ、14年秋に52歳で帰らぬ人となった。 いまだに働く元気も出ない。頼りは貯金と夫の遺族年金だけ。今月末には福島県による住宅補助も打ち切られる。地裁が認めた賠償額は「想像できないぐらい低い額」だった。この6年間の苦しみは何だったのか。「これでは主人にも報告できない」。女性はそう言って涙をぬぐった。
■◇「国と東電が断罪された」福島訴訟の原告◇■
前橋地裁は、各地で起こされている同様な原発避難者訴訟の中で最初に判決を言い渡した。各地で同様の訴訟を起こしている原告や弁護団も17日は前橋市を訪れて見守った。
福島県いわき市の訴訟の原告で、「原発被害者訴訟原告団全国連絡会」の佐藤三男事務局長(72)は「国と東電が断罪された。両者の責任が明らかになったことは大きい」と話しつつ、「私たちの被害の実態や苦しみが分かっていないのではないか。お金のために裁判をやっているのではないが、損害認定には納得できない」と不満をもらした。
■◇原告の自宅検証…原裁判長◇■
原発避難者訴訟で国と東電に賠償を命じた前橋地裁の原道子裁判長(59)は1985年に裁判官となった。千葉、東京、宇都宮地裁を経て2013年から前橋地裁で裁判長をしている。
今回の訴訟では積極的な訴訟指揮を執り、月1回のペースで口頭弁論や争点整理の期日を設定。昨年5月には福島第1原発の30キロ圏内にある原告4世帯の自宅を検証した。福島地裁を除き、各地の集団訴訟では初の現地検証だった。
記事・画像引用・参考元 Excite News <毎日新聞>【尾崎修二・山本有紀・鈴木敦子】【杉直樹】
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