柳島山勝善寺の秋の風景! 境内の大欅は黄色に! 数は少ないが鮮やかな紅葉も!

神社仏閣名所旧跡めぐり

柳島山勝善寺の秋の風景! 境内の大欅は黄色に! 数は少ないが鮮やかな紅葉も!

 

 

須坂市本上町にある柳島山勝善寺<リュウトウザン ショウゼンジ>は、正治元年(1199)に長野市柳原中俣に明空<ミョウクウ>によって創建されました。信濃源氏系武士の井上頼重<イノウエヨリシゲ>が、比叡山で出家し明空となったのです。明空は、下総国磯部<シモウサノクニイソベ>において親鸞聖人の直弟子となった人物である。勝善寺はこの所謂下総国磯部6ヶ寺のうちの1つとされ、下総国から、信州・越後に移って来たと言われるが、坂田にある普願寺と共に、実に須坂に2寺存在するのである。(勝善寺から5~6km離れた長野市長沼には、西厳寺があり、この寺も下総国磯部6ヶ寺の1つである)

明空によって創建され、十代住職以降は東本願寺派の名高い寺とされ、今でも全国の真宗大谷派寺院の中でも8ヶ寺に数えられる程の格式を持っています。勝善寺は、創建地の長野市柳原より須坂市の八町に移り、元和9年(1623)に須坂藩主の招きによって現在地に移転しました。

第16代住職の大明院真兼(小沢左膳)は、享保20年(1735)に勝善寺14代住職海秀の4女のもとに婿にきました。真兼の母は、水戸光圀の曽孫にあたることから、それ以降勝善寺の寺紋は「水戸葵」となっています。今も本殿の棟に、水戸葵の紋をみることができます。

その他、第17代住職乗兼の夫人は、平安時代の藤原定家から続く歌道の名家、京都今出川冷泉<レイゼイ>中納言為泰<タメヤス>の息女。そして、最後の須坂藩主、堀直明の息女も勝善寺に嫁いでいます。

 

過去を遡ると現在の住職は源家と水戸徳川家と冷泉家と堀家の血を引いていることになる。凄い家(寺!?)柄ですね。

 

小生の生家は、この勝善寺正門の直ぐ傍にあり、この寺の境内に入り込み、近所のガタク坊主らと、遊び惚けていたのである。この寺は怖ろしく大きくて、境内には、10余本の大欅があるが、その欅の高さよりも、遙かに本堂の屋根の方が高いため(しかも避雷針を設置してある)、落雷による被害は1度も無い程である。

 

今は銅葺きの屋根になっているが、小生が年少の頃は、瓦葺で、我々ガタク坊主は、面白がって、大屋根に向って、石を投げ、「カランコロン」と落ちてくる石の音を聞きながら喜んでいたものである。住職にしてみれば、とんでもない事であり、さぞかし気が揉めた事であったろう!(この罰当たり目ガ!)

 

また本堂前の空き地は、格好のグランド代わりになり、良く野球をやったものだ。今はその場所に鐘付堂が建っているが、当時は南側の岡の上にあった訳だが、それにしてもよく、この様に狭いところで、野球(軟球)をやったものだ。日が暮れてうす暗くなっても遊んでいた。三塁方向は道路に面していたので、それほど大きなファールでなくても、よく近所のお宅の大ガラスを割ってしまった。その度に親爺に散在させたものだ。

 

その他、お御堂の廊下を走り回ったり、本堂に入って、昼寝をしたり、本堂から庫裡に向かう渡り廊下の隙間から、庭園に入って、栃の身を拾ったり、勝善寺は格好の遊び場だった。

 

当時の悪ガキには、この由緒ある勝善寺の格式など、当然解りもしなかったから、ガタクの限りを尽くしてしまった。今は登下校しか、小学生の姿を見なくなった。人数も少ないのだろうが、我々の様に、お寺の境内で騒ぎ廻っている姿をトンと見ない。時代が違うと言えばそれ迄だが、寂しい気もする!

長々年少時代の想い出を書いてしまったが、今回は勝善寺の秋の様子を紹介してみたい。

そんなに多くは無いのだが、鮮やかな紅葉も見ることが出来たので!

 

小生が神社仏閣名所旧跡巡りをする様になったのも、この勝善寺の存在が大きいと思う。

 

 

引用・参考元 須坂市の歴史、見所紹介MAP 「須坂探検マップ」

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