木喰上人が一夜にして完成させた、全国でも珍しい「一塔六地蔵」 もとは仁礼中村の郷倉にあったものを、お告げにより塩野に移された!住民の信仰厚い地蔵尊!
長野県須坂市の塩野から米子へ抜ける「みのどうトンネル」手前左側に変わった形の六地蔵石幢<セキドウ>が立っています。
伝説によると、米子の木食の修行僧で仁礼地域亀倉町の「萬龍寺」を建てた木喰上人但唱<モクジキジョウニンタンショウ>が鉈<ナタ>一本で一晩にして彫り上げた石幢であると伝えられています。
元々は郷蔵の庭にあったのですが、大正時代になって信心家の夢枕に地蔵が立ち、「東山に行きたい」とお告げを下されたという。それで、現在の地に移されたのです。
仏教では人が死ぬと六道といわれる6つの世界に行くそうで、その6つの世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)で6種類の地蔵が救ってくれるとされています。それで、この石幢に彫られたお地蔵さまも6つなのです。
6地蔵の個々の名称についてはあまり決まっていないようです。資料によって異なっていますので、この石幢に彫られた地蔵のそれぞれの名前もわかりません。
この六地蔵は塩野の石造物としても古いもので、現在でも2月24日に地蔵祭が行われ住民に大切にされているのです。
【帰命山萬龍寺と木喰上人】
木食上人但唱は若い頃佐渡で修行をしたのち、米子の奥の奇妙山に籠って12年間難行苦行の末、元和3年(1617)当地亀倉に帰命山萬龍寺を開山したといわれる。萬龍寺は北信濃では数少ない天台宗寺院で、善光寺大勧進末である。
但唱上人が奇妙山の岩窟で、刻んだ千体木仏は萬龍寺に移されたが、明治の初め成器学校となった時、児童のおもちゃにされて現在残っているのは9体だけである。今日須坂市の天然記念物に指定されている門前のクマスギは樹齢300年前後で寺の創建の頃植えられたものといわれている。 この寺は慶安2年(1649)幕府から朱印状を授けられた(朱印寺)。本尊阿弥陀如来坐像は善光寺から移されたものと伝えられている。桜の名所。
※【郷倉】
江戸時代,郷村に設置された共同の倉庫。年貢米の一時的な保管倉庫で,のちには備荒用の穀物の貯蔵倉としても利用された。須坂でも仁礼中村地籍に残されている。当稿の一塔六地蔵も従来はこの郷倉の庭先にあった。(もっともこの郷倉も従来は中村の現在の公民館のところにあったものを、現在の大笹街道の脇に移設された)
【一塔六地蔵の上の山の斜面に咲く躑躅と宗吾神社】
記事・画像引用・参照元 <須坂市探検隊>=ふるさと須坂<須坂市教育委員会>
記事・画像引用・参照元<須坂のお宝>=須坂市仁礼の里 史跡マップ 勝山一男氏監修
動画 original
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