児持山七社、あるいは吾妻七社明神と称される神社の一つ。通称は、和利宮!吾妻神社(群馬県中之条)を参拝す!
現住所と仕事先と異なる身であるため、長野と千葉間を往復しなければならない宿命(!?)を持つ。高速長野道 ☞ 関越道を使うルートが普通だと思うが、同じ道を通るのも芸がない。という訳で、夏場は、群馬県嬬恋村から中之条、国道17号に抜けるルートを利用することが多くなった。
急ぐこともない移動なので、途中神社仏閣名所旧跡が目に入れば、時間を取って、寄り道することが多い。
という訳で、中之条を通り掛かった際、大きな鳥居が目に入ったので、車を降り、参拝することにした。
御祭神
大穴牟遲神
菅原道眞 大山祇命 火産靈命 速須佐之男命
天照皇大神 大日靈命 軻遇突知命 豊宇氣姫命
豊受大神 宇氣母智神 宇迦之御魂神 大物主命
日本武尊 埴山比賣命 市杵嶋姫命 別雷神
速玉男命 伊弉冉命 事解男命 建御名方命
八坂刀賣命 経津主命 天之御中主尊
木花開耶姫命 橘姫命 武甕槌命 麓山祇命
祭神不詳二十六座
【創祀年代は不詳】
一説には和銅年間の創祀とも伝えられる古社だがはっきりわからない。文化年間の火災によって社殿、古記録が焼失し詳細は不明となったと伝わる。古来、国司、武将に尊崇され、吾妻郡全郡に及んだという大社である。
もとは現社地の西南300mほどの御洗水山頂にあり、本殿があった。現在吾妻神社のあるところは、拝殿のみがあった遥拝所だったが、参拝が不便であったため本殿を現社地に遷座させた。
児持山七社、あるいは吾妻七社明神と称される神社の一つ。通称は、和利宮(わりのみや)。
境内の由緒書には、和流宮とあり唐流に対する大和流の意味で、そのため当社の主祭神は大穴牟遅命であると記されている。その後、和流宮が割宮、和利宮へと変化したという。
『神道集』の「児持山大明神の事」には、児持山大明神の縁起が記されており、当社は、児持御前(児持山大明神)の夫である加若次郎和理が神となったものとある。
明治維新後、村社六社、無格社十八 社、境内末社百二十七社、合計百五十一社を合祀し、吾妻神社と改称して郷社に列せられ現在に至る。
参照 http://www.genbu.net/data/kouzuke/agatuma_title.htm
吾妻神社由緒記
当社ノ創祀ハ、上古ノ時代ナルコトハ当社ノ資料ニ 依リ立證セラルルモ、文化九年四月十三日社殿祝融 ノ災ニ会イ旧記古文書凡テ焼失セシ為詳細ニ知ルヲ 得ザルハ吾人ノ最モ遺憾トスル処ナリ。
中古以前ニアリテハ本殿ハ現社地ノ南西参丁ヲ距テ シ御洗水山ノ頂上ニ鎮座シ現社地ハ拝殿ノ所在地タ リキ、然ルニ中古以後現社地ニ奉遷セシハ旧社地ハ 険阻ナル丘上ナリシヲ以テ、諸人参拝ノ不便ナリシ ガ為ナルベシ。
本社ノ社名ハ中古以前ニアリテハ和流宮ト称シ奉レ リ、蓋シ和流ハ唐流ニ対スル大和流ノ義ニシテ本社 ノ主神ハ大穴牟遅命(大国主命)ニ座マス。然ルニ 中古ニ至リテ、社名転訛シテ割宮(天正十八年当社 古記録)ト称シ、或ハ和利宮(貞享三年当社古記録 )ト称スルニ至ル。
明治維新後地方各村ニ亘リ、村社六社、無格社十八 社、境内末社百二十七社、合計百五十一社ヲ当社ニ 合祀シ同時ニ従来ノ俗称タリシ吾妻大社ナル尊称ヲ 踏襲シ吾妻神社ト認可改称セラレタリ。 旧社格 郷社
社殿ノ造営 文化四年四月一日
棟梁 上洲群馬郡元総社村出雲㊎
門弟 庄太夫㊎ 左ヱ門㊎
-境内由緒書-
画像 Original
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