【神社仏閣名所旧跡めぐり】風荒ぶ白井城跡に一人立つ!強者の夢のあと!(群馬県)  

日本の風景

【神社仏閣名所旧跡めぐり】風荒ぶ白井城跡に一人立つ!強者の夢のあと!(群馬県)

 

渋川の市街から国道17号を北上すると、利根川と吾妻川の合流点の橋に差し掛かる。習志野を出発して、遥々(?)ここ群馬県は、17号沿線道の駅「こもち」に到着した。急ぐ旅でもなし、後は須坂へ帰る丈だから、ここでゆっくりしようと思った。

駅の道自体もいろいろと見るべきものがあり、ぶらぶらしていたら、宿場跡(白井宿)の案内板が目に入ったので足を延ばしてみた。真ん中に堀割があり、両の道には、昔ながら商家が連なり、伝統ある看板がいくつも見られた。趣のある街道を、暫く行くと「白井城跡」の案内板が目に入った。右手に岡状の山が横たわっている。

 

右折し勾配を登り切ると、尾根筋の小道があり、暫く行くと、下に降りる道がある。ここら辺に来ると、同じような細い道が何通りもあり、ちょっとした窪地に通じる道だったり、土塁の上を歩く道だったりする。

城域の殆どは、今は農地になっていて、農夫が畑仕事をしていたりするが、それでも本丸周辺の土塁や堀、虎口の石垣などは明瞭に残っており、一見畑に見えるところもよく見ると堀だったりして、曲輪跡だと解る。

築城時期は定かではないが、関東管領家、山内上杉氏の重臣であった長尾景仲の築城といわれている。長尾景信の死後、管領家宰職の相続をめぐり家督争いが勃発、長尾景春が鉢形城を築いて立て籠もった(長尾景春の乱)。白井城は山内上杉の重要拠点として機能した。長尾景春と同盟する古河公方・足利成氏によって攻められもした。

天文15(1546)年の河越夜戦で上杉家の勢力が衰退し北条氏が侵攻してくると、山内上杉憲政は天文21(1552)年、平井城を捨て越後に亡命、以後、永禄3(1560)年以降、白井城は上杉謙信の関東出陣の際の基地の1つとなった。永禄12(1569)年、甲相駿三国同盟が崩れると北条氏康は上杉謙信と同盟した。武田信玄は上州へ侵攻、永禄13(1570)年には岩櫃城の真田幸隆が白井城の長尾憲景を攻め一時開城せしめた。元亀2(1571)年、北条氏康の死後、氏政により甲相同盟が復活すると翌年、再び真田幸隆が侵攻し白井城は武田の属城となった。

天正元(1573)年、信玄の死後は、白井長尾氏は上杉氏-北条氏-滝川(織田信長属将)氏-北条氏と主を変えた。

 

天正18(1590)年の小田原の役では北関東防衛の要衝とされたが、4月下旬、上州松井田城を攻略した前田・上杉氏らの北方軍軍勢が白井城に攻めかかり、北郭を占領、長尾政景(憲景の子)は、5月15日、開城した。家康の関東入封後は、徳川譜代の本多氏が入城する。この城は、利根川と、吾妻川に挟まれた、天然の要塞となっているが、幾多の戦の末、元和9(1623)年、廃城となる。

来た道を引き返したのだが、城のある岡を下るところに、神明宮がある。休みがてら、参拝し岡を下る。白井宿は昔の面影を色濃く残してているが、真ん中の掘割は、格好の遊び場となって入り、近所の女の子3人が川の中を走り回っていた。

道の駅「こもち」に戻り、太陽の輝く中を、結構歩いたので、かき氷などを頬張り、体の熱りを覚ました。これから長野原、嬬恋を抜け、菅平高原経由で須坂に戻る。標高の高いところを通り抜けるため、湿度の低い、爽やかな高原ルートで、快適なドライブとなった。

☝ 姿が映っちゃってるぞ! テレテレ!

 

参考 埋もれた古城 関東地方の城編

白井城 埋もれた古城

画像 小生オリジナル

 

 

 

 

 

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