【神社仏閣めぐり】絶世の美女!小野小町を祀る小町堂!(秋田県湯沢市)朱塗りの可憐なお堂が印象的!

日本の風景

【神社仏閣めぐり】絶世の美女!小野小町を祀る小町堂!(秋田県湯沢市)朱塗りの可憐なお堂が印象的!!

盛岡赴任から、早くも2年近く経った。この間、単身赴任でもあったので、休日の殆どを、神社仏閣名所旧跡めぐりに費やした。その大部分は、北東北3県に集中していたので、もうそろそろ転勤かも知れないと思い、今度は南東北3県を集中的に攻める(!?)ことにした。

まず最初は、山形県に狙いを定めた。やはり転勤となると、再び東北を訪れるのも大変になる。盛岡にいる間に、南東北も制覇しよう! そんな訳で、山形は、2泊3日で4回日程を組んで神社仏閣を中心にまわった。同じ道を通るのも詰まらないと思い、都度コースを変えたのだが、出羽三山に向かった時は、盛岡☞雫石☞大仙、ここから13号線に入り南下。
横手に出て、新庄に向うべく、13号を走り続けた。

 雄勝と言うところに出て、奥羽本線の踏切を渡って、暫く走った先に、真っ赤なお堂が見えた。なにか宇治の平等院鳳凰堂を小さくしたような形だった。なんだろうなあと思い車を停めて行ってみた。ここは秋田県湯沢市大字小野字小町と言う地籍で、あの才色兼備の歌人・小野小町が生まれ、育った地として伝わる「小町の郷」という事が分った。その小野小町霊を祀るために建設されたのがこの「小町堂」だ。平成7年(1995)に再建され、艶やかな朱塗りの堂が6月には芍薬の花で彩られる。6月第2週におこなわれる、小町まつりの会場になっている。

小野小町の生誕地と言われている集落にあるこの小町堂は、もともと「芍薬塚(しゃくやくづか)」を祀っていたのであるが、「小町神社」が老朽化したことから、新たに小町を偲ぶ御堂としてつくられたものだという。

 日本では、クレオパトラ、楊貴妃と並んで、世界三大美人の一人と云われる小野小町と、深草少将の恋物語の舞台となった場所とされ、江戸時代の紀行家、菅江真澄(東北の観光地を回るとよくこの名前を記した案内板がある)が小野を訪れており、小町堂の裏にはそのことを記した看板も立っている。

深草少将は小野小町にまつわる「百夜通い(ももよがよい)」の伝説に登場する人物。舞台は平安時代初期の京都。欣浄寺(京都市伏見区)に深草少将の屋敷があり、小町の住む山科の小野の里(隋心院)まで5キロの道を99日通い続けたが、最後の夜大雪のため、思いを遂げず死んだとされる。京都の山科には、今も、深草少将が小町のもとへ百夜通いしたという通い道が残っている。

秋田県の伝説では、小野小町は、大同4年(809年)出羽国福富の荘桐の木田(秋田県の雄勝町小野字桐木田)で生まれた。 大変美しく、幼少より歌や踊り、琴、書道に通じ13歳頃、都にのぼり、都の風習や教養を身につけ、その後、宮中に任へ、容姿の美しさや才能の優れていることなど、多くの女官中並ぶ者がないといわれ、時の帝からも寵愛を受けた。

後に、宮中の生活に嫌気がさし、36歳頃故郷である小野の地に戻るが、深草少将は小町を追い身分を捨て、郡司代職として小野へ向かい、小町に想いを伝える。小町の返事は、百夜続けて自分の元に通い、亡き母の好きだった芍薬を植えて欲しいという。小町が少将を避けたのは疱瘡を患い百日経つ頃には回復すると思って期間を設けたという。少将は百夜目に橋と共に森子川に流されて亡くなってしまったという。小町は少将が仮の宿としていた長鮮寺に住んで92歳まで少将を弔って暮らしたとされる。

小町堂は朱塗りで、平等院鳳凰堂を模して造られた鮮やかな建物となっており、毎年、芍薬の花が咲き誇る6月の第2日曜日に小町を偲び、小町まつりが行わる。小町まつりは、宵祭と本祭の2部に分かれており、どちらも小町堂を舞台に盛大に行われ、平安の世へタイムスリップしたような気持ちを味わえるお祭りとなっている。

 その小町まつりの際、年に1度だけお堂が開けられ、木彫りの小町像を見ることができ、そのご神体を収める厨子は、大木の空洞を生かして作られている。明治頃の写真によると、芍薬塚として小町神社があったのが伺える。この小町神社に収められていたご神体、木彫りの小町像は、明治40年頃に熊野神社に祀られ、その後、昭和28年に建立された旧小町堂に祀られ、平成7年、現在の小町堂へと収められた。

 小町堂の姿は時代を重ねるごとに変わっていきましたが、深草少将の一途な想いを表すかのように、今も同じ地にある。

 百日通い伝説は、京都の隋心院にもあり、何か混同されているかのような感じである。少将が京都で死んだという説を取れば、ここ雄勝に小町を追ってくることは不可能という事になる。いずれにしても美人故の混同(ミステリー)という事にしておこう!

【小野小町 おののこまち 生没年不詳】

出自不詳。『古今和歌集目録』には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右(古)姫云々」とあり、『小野氏系図』には篁の孫で、出羽郡司良真の女子とあるが、いずれも定かではない。ほかに出羽守小野滝雄の子とする説などがある。経歴等も明らかでないが、仁明朝(833~850)・文徳朝(850~858)頃、後宮に仕えていたことは確からしい。「小町」の名から、姉と共に仁明天皇の更衣(または中臈女房)であったと見る説があり、また『続日本後紀』承和九年(842)正月の記事に見える小野吉子(仁明天皇の更衣とみられる)と同一人、またはその妹とする説がある。

古今集・後撰集の歌からは安部清行・小野貞樹・僧正遍昭・文室康秀との親交が窺え、また「小町が姉」の歌が見える。

家集『小野小町集』に百余首の歌を伝える(異本系は七十首足らず)が、後世の他撰であり、他人の作が混入している。確実に小町の歌と言えるのは古今集所載歌十八首のみとも言い、あるいはこれに後撰集の四首を加える論者もいる。六歌仙・三十六歌仙。古今集仮名序には「いにしへの衣通姫の流なり、あはれなるやうにて強からず、いはばよき女のなやめるところあるに似たり」と評されている。

 出羽の国に生まれ、それが京の都に出て、仁明天皇の寵愛を受けるところまで出世(!?)するのだから、これはもう大したものだといわざるを得ず、如何に美人だったかを想像するほかない。百代通いの逸話や、没した地が、山科や雄勝など、どちらか解らない(混同している?)のも、美人ゆえのミステリーなのかも知れない。しかし地名迄、大字小野字小町と付けられては、この雄勝で没し、深草の少将の霊を慰めたという説の方が相応しいという気がする。

秋田も山形も結構多くの地を訪れたが、もう一か所小野小町の生誕地と名乗っていたところがあったのだが、それが何処だったか、今となっては思い出せない。もう15・6年経っているのに今頃書いている体たらくなのでお許しを戴きたい。

伝小野小町墓は、(他にもあるのだろうが) 京都府綴喜郡井手町に存在する。

小町祭り(あきた元気ムラ!秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイトより)

https://redrb.heteml.jp/park/komachidou20160816.html
小野小町 千人万首

秋田県観光総合ガイド あきたファン・ドッと・コム

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