【須坂探訪】勝善寺とほか2寺になってしまった寺内(本上町)
須坂市のほぼ真ん中に一際大きなお寺がある。その名を勝善寺という。この付近は、嘗て勝善寺のほか、5寺(勝善寺と通りを挟んだ反対側に並んでいた)計6寺が密集しており、通称寺内と呼ばれていた。
5寺とは、南から北へ、勝教寺、円照寺、蓮休寺、宝光寺、真勝寺ある。の寺院である。その内勝教寺、円照寺、真勝寺の3寺は廃寺となり、建物も取り壊されてしまった。
柳島山という山号をもつ勝善寺は浄土真宗大谷派の名刹で、正治元年(1199)に現在の長野市柳原中俣(水内郡中俣村)に創建された。開基は清和源氏の流れ井上源氏の血をひく釈明空。明空は親鸞上人の直弟子で6人の高僧のひとりである。この6人の高僧たちの寺は当初常陸の国にあり、「磯部六ケ寺」と言われていたが、後信濃の国、越後の国に移転した。そのうちの2寺が須坂市内に存在する。普願寺とこの勝善寺の2寺である。その後勝善寺は須坂市八丁へ移ったが、元和9年(1623)に須坂藩主の招きで現在地へ移った。
勝善寺は境内の広さ2900坪、何度か火災に遭い、現在の本堂は慶応2年(1866)から16年の歳月をかけて完成した。本堂の広さは317坪あまり。欅の大柱60余本が使われている。
14代住職海秀の4女奈与子に水戸光圀の曾孫大明院真兼(俗名小沢左膳)が16代住職として婿入り、それ以来水戸葵を寺紋として許されている。17代住職夫人八千姫の父は京都今出川冷泉中納言で、多くの書簡が残されている。(境内に宝物殿がある)また、明治維新後に14代堀直明須坂藩主の娘徳子が22代住職勝秀に嫁いでいる。このようにこの寺は時の為政者との縁が深かった。
☝ 【須坂探訪】 勝善寺を中心とした寺内町(本上町) わがルーツの地なり
☟ 勝善寺 新緑の欅の大木 昔このお寺の境内でよく遊んだ!
また境内の南側には、数本の欅の大木があり、その樹高より高い本堂の屋根と共に、長野市内からもそれと識別できる程の大寺である。小生の子供時代は、このお寺はガキ共の恰好の遊び場であり、野球や竹スキー、橇などでよく遊んだものだ。またお堂の回廊も、飛び回っていた。今そこに行くと、結構広く感じた回廊は凄く狭く感じる。よくこんな狭いところを、全速力で走り回っていたなあと思う。
当時の寺の屋根は瓦葺であったが、悪ガキ共は石を放り投げ、カランコロンと落ちてくる石に(どれだけ遠くに投げられたが)一喜一憂したものである。[そんな訳で、瓦はよく割れてしまい、住職は怒り心頭」だった事だと思う!←一回も怒られなかったが!] 野球は軟球だったが、塀の外に出てしまうファールが、よそ様のガラス戸に飛び込んでしまい、ガラスを割り、親父に何回も弁償させてしまった。[玄関の戸に嵌っていたガラスで結構高かったと思う!] 夕飯も忘れ、真っ暗になるまでよく遊んだものだ。
そんな訳で、この寺内は、幼い頃の思い出がしみ込んでいる場所なのである。
記事参照 須坂のお宝
動画 オリジナル
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