大往生≪老衰で死亡すること≫したけりゃ医療と関わるな自然死のすすめ!
中村仁一著「大往生したけりゃ医療と関わるな 自然死のすすめ」という本が出たので、さっそく読んでみました。
現在社会において、所謂「老衰」でお亡くなりになる人は、全体の僅か3%にすぎません。今の医療は「とにかく治療を!」という事で、本人が望んでも、病院に入院させられ、無理くりでも病人に仕立て上げられてしましまいます。検診も20%は念のためという事で、再検診に回されます。生き物に死は付き物ですが、中々自宅で、死なせて貰うのは難しいご時世のようです。そんな中で、「大往生したけりゃ医療と関わるな 自然死のすすめ」という本を見つけました!特別養護老人ホームの常勤の配置医師をされております、中村仁一先生がお書きになりました。医療とか死とか、現在における問題が書かれています。参考にしてください!
私は特別養護老人ホームの常勤の配置医師です。この配置医師という行政用語は凄すぎる!まるで「富山の置き薬」のようです。最近まで「アイヌの土人(北海道旧土人保護法1997年廃止)」と称していた、お役所体質の面目躍如です。それかあらぬか、私はそろそろ賞味期限が切れる年齢(1940年生れ)なのに、代わりの医師が中々見つかりません。
老人ホームは福祉系という事もあり、知り合いに声を掛けても、「幾らなんでも、そこまでは身を落としたくない」という答えが返ってきます。確かに私も、入居者の家族から何事によらず、「病名や予後(病気・手術などの経過または終末)について、病院の先生から言われるのならば納得が出来るのですが…」などと言われましたし、ちょっとした湿疹でも「もし手遅れになったら、どうしてくれるんですか?」と詰め寄られます。ただ彼らには悪気がないないのです。また老人ホームの私以外の介護職員にしても、現代の日本人ですから、心情的には、入居者の家族と似たようなものです。何かとすぐ病院に連れて行きたがります。当初私も「なぬっ!」と気色張りました。しかしながら、それまで中小といえども病院勤務だったので、「世間には歴然と医者の序列があることに気が付かなかった」だけのことです。
つまり、大学病院の医師が頂点で、旧国立病院や、日赤、済生会、県立、市立などの「税立(今は独立医療法人などになっていたりするが)」病院と続き、次が民間の大病院、中小の病院の医師で、一番下が所謂町医者といわれる開業医です。老人ホームの医師は更にその下ですから、謂わばホームレスレベルなのです。ですから市立病院の部長であっても、開業した途端最下位の町医者に位置付けられてしまうのです。世間では、家族や知り合いが開業医や小さな病院で診て貰っていて、経過が芳しくないときに、「だめ!そんな小さなところに掛かっていては。もっと大きなところに行かなくては」というのが普通の感覚=常識なのですから。考えてみれば当然です。
我が国には医師個人の情報がなく、その実力の程は一般の人には解りません。そこで病院の序列の上の医師の方が評価が高いという事になるのでしょう。一般に病院志向、専門医師志向が高いですから、老人ホームの入居者の容態にちょっと異変があれば、家族から直ぐ病院受診という要望が出されるのも止むを得ないことかも知れません。
ですから私の出番は「病院が見放した」後なのです。出過ぎず、分を弁えていさえすれば、波風も立たず、私も無駄な葛藤をせずに済むという構図です。その老人ホームの勤務も12年になり、最後まで、点滴注射も、酸素吸入も一切しない「自然死」を数百例も見せて貰えるという得難い体験をしました。病院では、最後まで何かと処置をします。いや「しなければならないのが使命」と思っていますから当然乍ら「自然死」はあり得ません。在宅における死も、普通は病院医療を引き継ぎますから、殆どの場合は自然死ではありません。
また医師の方も、処置をしないことには耐えられないでしょう(処置は医師の使命と思っているので)。しかしそれらは「穏やかに死ぬ」のを邪魔をする行為なのです。ですから殆どの場合、医師は「自然死」というものを知りません。だから「死ぬのにも医療の手助けが必要だ」などと言い出すのです。
「死」という自然の営みは、本来穏やかで安らかなものであった筈です。それを医療が濃厚に関与することによって、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのです。癌でさえ何の手出しをしなければ、全く痛まず、穏やかに死に至ります。以前から「死ぬのは癌に限る」と思っていましたが、年寄りの癌の自然死を70余例経験した今は確信に変わりました。繁殖を終えたお年寄りは、「癌死」は1番のお奨めです。
ただし「手遅れの幸せ」を満喫するためには、「癌検診」や、「人間ドッグ」などを受けてはいけません。病院通いのお年寄りが多いのは、医師が「健やかに老いなければいけない」と洗脳した結果でもあります。本来年寄りは、何処か具合の悪いところがあって正常なのです。不具合の殆どが「老化」絡みがですから、医者に掛かって、薬を飲んだところで、すっかり良くなる訳がありません。昔のお年寄りの様に「年を取るとこんなもんだ!」と思うことの方が自然です。
ところが現在のお年寄りは、「老い」を「病」に擦り替えてしまいます。何故なら「老い」は一方通行で、その先には「死」しかありませんが、「病気」なら回復が期待できますから。しかし人間は生き物である以上、「老いて死ぬという事からは逃れること」はありません。「死ぬというのは運命だ」という事です。最先端医療といい、再生医療と言い、それらは所詮「老いて死ぬ」という枠内(運命)の中での話に過ぎません。年寄りはそれ等(最先端医療、再生医療)に近づかない方が賢明です。
医療に依存し過ぎず、老いには寄り添い、病には連れ添う、これがお年寄りにとって、「楽に生きる王道」と思います。お年寄りの最後の仕事は、出来るだけ自然に「死んでみせる」という事だと思います。しかし「逝き方」は、「生き方」なのです。今日は昨日の続きです。昨日と全く異なる今日はあり得ません。という事は「今日の生き方」が問われるという事です。という事は「今の生き方、周囲への関わり方、医療の利用の仕方など」が、死の場面に反映されるという事です。
すこし体調が優れないと、直ぐ「医者よ!薬よ!病院よ!」と大騒ぎする人には、「自然死は高望み」という事になります。私などは、有名人でもなければ、大学病院の医師でもないので失うものは何にもありません。おまけに先が短いので怖いものもありません。したがって医療の常識的なこととか、序列などの世界を考慮せず、いろいろ好き勝手なことを書きました。世間的に常識と思われていることに対して竿を指すと思われるかも知れませんが、それこそ人生に対する思考や、健康や医療に対する幻想に陥っている証かもしれません。生き
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