339号線冬季閉鎖ゲイトに阻まれ、引き返す途中で寄った「小説「津軽」の像記念館」!柄にもなく「太宰治」に思いを馳せる旅に早変わり!?
意気込んで津軽半島最突端「竜飛岬」を目指したのはよかったのだが、339号線(竜泊ライン)竜飛まで僅か14kmのところで、思いがけずの非常の「冬季閉鎖」のゲイトに阻まれ敢え無くダウン! 準備なし、行き当たりバッタリの旅の「弱点」をモロに曝け出した旅になってしまった。「こういう事もあらぁな!」と自分を慰め、ちっとも反省しないのであった。
ゲイトに張り付いていた、兄ちゃんの「憐みの視線」を背後に感じながら、元来た道を引き返す羽目にと相成った。此処では大阪ナンバーのプレートは何の役にも立たなかった!
暫く行くと、例の七ッ滝。車を降りて、再び写真を撮る。急ぐ旅でもなくなったので、ヤケのヤンパチ時間を掛けた。がしかし海岸端の滝1本。そんなに時間が掛かる訳ではなかった。339号線を南下する。
折越海岸を過ぎ、道路が海岸端から内陸方向に入ると、中泊町小泊の町中に入る。行きは気が付かなかったが、「小説『津軽』の像に隣接する記念館」入り口という案内板が目に入る。何か「見るべきものはないか」と探しながら、車を走らせていたので、即行ってみることに決めた。
太宰の『津軽』には、小泊小学校の運動会で太宰と子守の越野タケが再会する場面がある。この小学校を望む丘にその記念館が立っている。
そこは、小説家太宰治と子守のタケが30年振りの再開(1944年)をした場所で「津軽」のラストシーンを具象化した像が建てられているミュージアムだった。治とタケが台座の上に並んで座っている。治は足を投げ出した大層崩れた格好だが、タケは津島家に子守りとして仕えた立場からか、きちんと正座して治の横に座っている。その対象が実にリアルに表されている。
ミュージアムは、「小説『津軽』の像に隣接する記念館」という名前の、治とタケの像に隣接する記念館。(青森県北津軽郡中泊町大字小泊字砂山1080-1) 館内には、小説「津軽」の誕生から、小説「津軽」のたどった足跡、越野タケと太宰治の年譜、写真、思い出の品をパネルなどで解説。映像音声コーナーとして、太宰の合成音声、長女園子さんの映像や音声を自由に選択できるコーナーも。 在りし日のタケの姿と太宰を映像でとらえたビデオシアター、タケが太宰との思い出を語る映像などもあり、小説「津軽」にまつわるものを多数展示している。
タケはここ小泊の出身だが、小作の年貢米の代わりに、大地主五所川原の津島家に子守り役として奉公に出された。そこで当時2歳の治と出会ったのである。治は末っ子で、手が掛かったので、タケは一番治の面倒をみたのである。治には、後に県知事や、国会議員となった優秀な兄(津島文治)がいたのだが、放蕩暮らしの治は、何かとその兄弟たちと比べられ、「金木のごじょらし<恥さらしの意>と周囲から蔑まれたという事だ。
そんな治をタケは心配し、一心に子守り役を果たしたのだが、治が上京した後も、何かと治のことを想っていたらしい。なにしろ生涯4度も自殺未遂を企てた、ブロークンハートの持ち主である。タケはさぞかし気を揉んでいたに違いない。
治は小説「津軽」を書いているが、この小説は、治がタケに逢いに、小泊にやって来た様子を題材にして書いたものである。治35歳、タケ46歳の時であった。常に心に置き、何かと心配をしていたタケにとって、治がヒョイと訪ねてきてくれたことには、吃驚もしただろうが、嬉しかったに違いない。そんな訳でこちとらも、暫し柄にもなく文学の世界に浸ったのである。
冬季閉鎖の為に、止む無く引き返した道すがら、偶然に出くわした「小説『津軽』の像に隣接する記念館」だったが、思わぬ文学の香りのする「格調の高い」旅になったのである。
☝ 治の生家 今は「斜陽館」として、治の記念館になっている!
記事参考
画像 original
一部画像元 yjimage
コメント