【神社仏閣めぐり】 善光寺 お戒壇巡り・ご印文頂戴 考 

善光寺 お戒壇巡り・ご印文頂戴

善光寺に参拝すると、色々と印象に残るものがあります。その中でもお戒壇巡りは印象の強いものの一つだと思います。以下それについて記します。

善光寺の本堂には「お戒壇巡り」という、本尊阿弥陀如来をお祀りする瑠璃檀の地下を巡り、ご本尊の真下につながる極楽浄土の鍵に触れることで極楽往生をお約束されるという場所があります。

この「お戒壇巡り」は、全く何も見えない真っ暗闇の空間を進んでいきます。右手の壁を伝いながら、不安の中を進んでいくと腰の高さあたりに「ご本尊から繋がる極楽の鍵」があります。不思議なもので、いったん鍵に触ると、あとの闇は不安もなく出口へと進むことが出来る様な気になります。目の前にその僅かな光を見る時、ほっと安堵の念を抱きます。あって当たり前と思っている光のありがたさ、目の見える尊さを再認識すると思います。

この様にお戒壇巡りは、秘仏の御本尊様の下を巡って、仏様の分身ともいえる「お錠前」に触れることにより、仏様と縁を結び極楽往生の約束をしていただき、人間の本来持っている仏縁の種を大切に育ててゆくことを仏様に誓う謂わば「行」であります。

つい10数年程前までは、経帷子(きょうかたびら)を着て草鞋(わらじ)を履き、手には白木の念珠をし、口には「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱え、死出の旅路の装束でお戒壇巡りをする風習がありました。これは、善光寺で極楽往生の約束をいただき、いざ今生の別れを迎える時、その装束をして極楽へお連れ戴くためのものでした。[昔は本堂外陣に信者は寝泊まりして参拝に訪れたそうです]

お戒壇の中の暗闇は、無差別平等の世界をあらわしているとされています。日頃、余計なものに眼を奪われて、ものの本質を見誤ったり、争ったり、嫉妬したり、むさぼったりして、結果は悩みに陥るのです。ところが、暗闇の中では、私たちは種々のとらわれの心を離れ、極楽のお錠前を探し当てることに専心します。つまり、仏様の世界に入って行くことができるのです。

人の「仏になる種」が植えられています。仏種(ぶっしゅ)とも仏性(ぶっしょう)とも言われているのがそれに当たります。原石に磨きをかけることで美しい輝きを放つのです。私たちのこころも同様です。お戒壇巡りをすると、眼の不自由な方の日々の苦しみ、不安をご理解することも出来ます。そうした方々に手を差し伸べる、そんな僅かな親切が、心の仏種に水を与えることになるのです。日常の小さな親切、思いやりの精神こそ、こころの中にあるダイヤモンドの原石を磨くことに他ならないという訳です。阿弥陀如来様からご縁をいただくことで、こころの中にある「仏となる種」を大きく育てているのだ、という気持ちでお参りすると、より一層有意義なものとなると言われています。

※ 「お血脈」という善光寺を舞台にした落語があります。当時、百疋(ぴき)のお金を善光寺に納めると、ありがたい錦(にしき)の袋に入った御血脈の御印を額に押してもらえたそうです。押して貰うと、どんな大罪を犯していても罪障消滅して極楽へ行けるといわれ、それが流行った結果、世の中は極楽往生するものばかりで、地獄に行く者が居なくなった。地獄は開店休業状態と相成り、さー!そこで困ったのは閻魔大王!地獄の衰退を悲しみ、何か良い考えはないかと、急遽、対策会議を招集して、アイデアは求めたところ、悩みの種となっている、善光寺の御血脈の御印を盗み出してしまえばいいと結論が出た。地獄には大泥棒が揃っているので、 大勢居る中、石川五右衛門が選ばれた。五右衛門は閻魔大王の前に出て、芝居がかりの衣装とセリフで請け応えた。人目に付かない様にと街に出てきたが、まだ昼だったので新宿末広亭の昼席に潜り込んで夜になるのを待った。さあて!日も暮れたので、得意の忍術で善光寺にひとっ飛び!深夜、善光寺に忍び込んだが、どうしても御印が見付からなかった。諦めて、閻魔大王様に謝ろうと帰り掛けたその時!棚の隅の桐箱に入っていた御印を見付け出した。大泥棒の面目躍如!

調子づいた、芝居心が旺盛な五右衛門、よせばいいのに、大見えを切って! 「ありがたやあ!かたじけねぇ! まんまと善光寺の奥殿に忍び入り、取ったる血脈の御印。これせぇあれば大願成就、ありがたや、ちぇ、かたじけなや」と、額に押しつけたら、功徳その儘に、自分自身がそのまま極楽に行ってしまった。それじゃダメじゃん! こんなネタができるほど、善光寺は極楽往生を願う人々の信仰を集めていました。

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