待望の「竹内文書を継承する皇祖皇太神宮」に参拝する機会を得ることが出来た!

歴史探訪

待望の「竹内文書を継承する皇祖皇太神宮」に参拝する機会を得ることが出来た!

偶然というか、本屋で「竹内文書」という本と出合ったのが、この皇祖皇大神宮に関心を持った始まりであった。竹内文書は難解で、よく理解は出来ないでいるが、超古代の歴史について書かれており、「正史」により、埋もれてしまった「宇宙創造」「地球創造」が記録されている。「壮大なる偽書」と言って、一顧だにしない歴史学者が存在するが、それは歴史性(政治性)というものを無視した、安易な研究態度というものだろう! こんな長大なものを、態々偽って書く人は居ない。何らかの意味を有しているものであることは間違いない。

さてそれはそれとして、昭和初期の弾圧により、多くの資料を没収され、空襲により、没収先の火事により焼失してしまったのだが、この文書を代々受け継いできた皇祖皇大神宮とはいかなるものか大変興味を持った。もともとは富山県富山市金屋の地にあったものであるが、北茨木の現所在地に移されたものである。

北茨木市は、長女の連れ合いの母方の実家がある地でもあり、縁があったので、是非この

皇祖皇太神宮を訪れたいと思っていたところ、暮れの買い出しに茨木の魚市場に行くというので、皇祖皇太神宮にも寄ってくれるよう依頼し車に乗り込んだ。

 

そんな皇祖皇太神宮は、竹内文献の事もあり、今まで行った神社仏閣とは異なり、若干の緊張感をもって参拝した。別にお話を聞くために、予約をした訳でもなく、ただ参拝がてら、境内を廻らせて戴いた丈であったが、実際訪れることが出来ただけで満足であった。

 

【皇祖皇太神宮の由来】

太古の歴史を今に伝える、「古事記」、「日本書紀」、それらよりもはるか昔の神話を記録した古文書。はるか昔、日本の天皇(スメラミコト)の祖先が地球に降り立ったころからの、世界最古の歴史を記録した、謎の古文書のことを、「竹内文書・竹内文献」と言います。

古代歴史や古史古伝に興味がある人で知らない人はいないこの古文書を受け継いだのが、皇祖皇太神宮(こうそ こうたいじんぐう)である。3000億年前からの歴史が記載されている現代人の常識を覆す内容は神代文字「かみよもじ」で書かれている。竹内文書では、「無」から始まり、「宇宙創造」をし、「地球創造」をし、「世界の国々を作りそこに「五色人」を作られたという。古代の日本の天皇(スメラミコト)に会うために、世界中から聖人と呼ばれるイエスキリスト、釈迦、マホメット、老子、孔子など世界の大宗教教祖はすべて来日し他と伝えられている。

【沿革】

 

皇祖皇太神宮天津教とは、昭和前期に強勢を誇った御嶽教系の流れをくむ宗教団体である。単に「天津教」と略称されることもある。竹内巨麿が祖父より譲り受けた、世界の歴史や、太古の天皇家を記した古文献(いわゆる竹内文書)や、真正な神器とされる神宝の正当な認知や、皇祖皇太神宮の国家による日本国の再興を求め、1900年に茨城県において御嶽教天都教会を開く。(もともとは富山県にあった)

☝ 富山皇祖皇太神宮 (現在は祠のみ)

1911年に本殿や拝殿を新築し、徐々に活動の範囲を広げ、1929年には茨城県、福島県、東京、千葉県などで信者を1万数千人を擁するまでになる。 しかし、1929年詐欺事件で検挙された明道会岸一太の著作中に竹内文書の一部が掲載されていたことや、教団から竹内文書や教団の神宝を認知するよう宮内省に働きかけがあったこと、さらに、1930年に前出の岸一太の関連で、警視庁が詐欺罪容疑で竹内巨磨らを取り調べるも、不起訴。 1932年、内務省特高警察が竹内巨磨を拘引、不敬の言動により同年6月、菊花紋章類似図形の使用禁止、神宝拝観禁止の処分をし、神社の鳥居を撤去を余儀なくされた(第一次天津教弾圧事件)。

その後、御嶽教を離れ、合資会社天津教大司庁を設立するなどして活動を続けるも、1936年2月13日朝、茨城県多賀郡磯原町にて竹内巨麿らが不敬罪、文書偽造行使罪、詐欺罪容疑で逮捕された。 主な逮捕理由として世界天皇史観ともいうような神話と、異質な神代史、皇統譜を説き、その神宝をもって真正の三種の神器と称するなど、神宮や皇統の尊厳をそこなう不敬な思想が含まれていること、その思想が、国体明徴や現状打破を主張する国家主義者や国粋主義者、軍人の関心を引き付けたというものであった。

1937年12月11日、逮捕者15名中竹内巨麿のみが不敬罪で起訴。1942年3月16日、一審不敬罪有罪判決。上告。1944年12月12日、大審院無罪判決、結審。判決では、「この問題は裁判所の権限を超えた宗教問題である」、あるいは「単なる証拠不十分である」として無罪が宣告されるに至る(第二次天津教弾圧事件)。

教団としては決して大規模ではなかったが、その神宝や文献を見学、調査に訪れた学者や軍人はかなりの数にのぼり、当時その思想的影響力は無視できないものがあった。天津教最盛期時には、当時の教団の説明によると、荒木貞夫、有馬良橘、一条実孝、川村竹治、下中弥三郎、塩野季彦、頭山満などの有力軍人・政治家の信奉者がいたと伝えられている。

 

https://youtu.be/EuL_Adz4jUU(皇祖皇太神宮の由来 皇祖皇大神宮提供)

 

 

https://youtu.be/zvrEdFzsvNY(皇祖皇太神宮 鳴動神事 皇祖皇大神宮提供)

 

https://youtu.be/E9_y0Ohl2V8 (皇祖皇太神宮の歴史 皇祖皇大神宮提供)

 

 

記事参考 皇祖皇太神宮HP

皇祖皇太神宮

ウイキペディア

皇祖皇太神宮天津教 - Wikipedia

動画元 http://www.kousokoutaijingu.or.jp/movie/

画像元 Original

画像元 yjimage(一部)

「皇祖皇太神宮」の検索結果 - Yahoo!検索(画像)
Yahoo!検索による「皇祖皇太神宮」の画像検索結果です。

 

 

 

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