<京都・西本願寺宛て文書見つかる!>「浅野内匠頭 乱心」の内容!

 

赤穂浪士討ち入りのきっかけとなった赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)の刃傷事件に触れた新たな古文書が浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)の本願寺史料研究所で見つかり、同研究所が2日発表した。事件直後に作成されたもので、内匠頭が「乱心」したなどと記されている。刃傷事件について同時代に書かれた史料は見つかっていないといい、同研究所は「当時の状況が分かる貴重な発見」としている。

 

刃傷事件は元禄14年3月14日(1701年4月21日)に発生。内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介(きら・こうずけのすけ)に切りつけた。赤穂藩は取りつぶし、内匠頭は即日切腹となり、元禄15年12月(1703年1月)に家老の大石内蔵助(くらのすけ)らが吉良邸で上野介を討ち取った。

 

見つかったのは、上野介と関係が深かった西本願寺の幹部が直轄寺院である江戸築地御坊(現・築地本願寺)とやりとりした際に作った「江戸江遣書状留帳(えつかわすしょじょうとどめちょう)」。同研究所が保管する約20万点の中にあった。

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事件から7日後の元禄14年3月21日(1701年4月28日)付の文書には上野介が「不慮之儀(思いがけない事件)」に巻き込まれたなどと記述。3週間後の文書には「内匠殿乱心」と記し上野介は軽傷で食事も普段通り取っていることなどを説明している。

 

「乱心」の理由については内匠頭を取り調べた担当者に情報提供を依頼したり上野介と直接会ったりしているにもかかわらず記されていなかった。

 

刃傷事件は19世紀前半に江戸幕府が編さんした「徳川実紀」でも取り上げられているがやはり乱心の理由は記されていない。同研究所の大喜(だいき)直彦・上級研究員は「優れた情報収集能力がある西本願寺が調べても、事件の真相をつかめなかったことが今回の史料からうかがえる。乱心の理由は当時の人たちにも大きな謎だったのではないか」と話している。

 

<原文の一部>

 

一、吉良殿御痛も軽ク、御食事無 替事由、御注進、御見廻御勤之

儀ハ、先達而申入候、猶又其元宜 御見廻御勤可有之候、就夫内匠殿

乱心之様承候得共、委細様子御申登せ 無之候、右之首尾其元噂候様子

委御申聞可有之候

 

<現代語訳>

 

  • 吉良殿、お痛みも軽く、食事も相変わることがない由、御注進を受けた。お見舞いの勤めの件は、先だって申し入れておいた。なおまたそちら(築地本願寺)で、よろしくお見舞いのお勤めをするように。それについて浅野内匠頭殿の乱心の様子を承りたいが、委細の様子が上申されていない。右事件の終始、そちらでの噂(うわさ)の様子委(くわ)しく申し聞いておくように。

 

引用・参考元 ヤフーニュース<毎日新聞 篠田直哉>

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161203-00000002-mai-cul

画像引用 http://mainichi.jp/articles/20161203/ddm/012/040/069000c