【信州シリーズ】 県歌「信濃の国」 何かと理屈で喧しい信州人の統合<!?>の象徴!

‘48年県議会で、長野県の分県意見書案上程採決の時、傍聴席から「県歌」の大合唱!

分裂危機回避!

 

県歌「信濃の国」

 

他県の方にとって、長野県の県歌「信濃の国」のことを聞くとびっくりするかも知れない。県歌というものを持っている県も数多くあると思うが、信州でのこの歌は本当に特別な扱いなのである。まあ!長野県の特徴を、ずらっと並べた、観光案内のような歌詞なのだが、先ず信州人で、この歌を知らない者はいない。

 

明治32年に、長野師範学校の漢文の教師作だった浅井冽が作詞し、信濃教育会誌153号に発表された。それを同校の教師依田弁之助が作曲したものである。この時点では未だ普及されていなかったが、翌年依田の後任として、赴任してきた北村季晴が作り変え、長野師範学校記念運動会で、女子部の遊戯用の曲として使ったところ、以後歌われるようになった。更に明治35年、皇太子行倖の際、この歌を上呈したのをきっかけにして、師範学校校歌となった。

 

この師範学校の校歌になったというのが、この歌が県下の隅々に広がった要因となったのだと思う。即ち師範学校を出た先生たちが、赴任先の各学校でこの歌を児童・生徒に教えたのである。実際に学校行事には必ず歌われたのである。小学校の運動会などでは、1番最後のプログラムで、この曲に合わせて、児童が遊戯を行った。小学校の時から、9年間も、信濃の国を歌い、慣れ親しんでいれば、いやがうえにも誰だってこの歌を覚えこんでしまうのは自然の成り行きである。

信州人は、社会に出て、県外に出ても、県人会、同郷会、同窓会などなど、集まる機会も多く、その際の締めには、必ずと言っていいほどこの「信濃の国」を歌うのである。[県内における運動会・結婚式・寄合などの諸行事でも]

 

長野県では、あまり「長野県人」という言い方をしない。「信州人」と表現する。これは長野県の成り立ちに大いに関係がある。明治の廃藩置県前は、信州では、何んと11藩(うち1藩は廃藩置県前に廃藩)あったのを、明治4年7月に、廃藩の詔が発せられ、以降右葉曲折を経て、明治4年11月に長野県・筑摩県の2県までに統合、更に明治9年の再統合により、1県に纏められ、新生「長野県」となった。

 

長野県は南北に。220kmもあり、面積でも、北海道、岩手、福島県に次いで、4位の県であるが、地図を見てもお判りのように、県庁所在地の長野市は、恐ろしく北に偏った地にある。そうでなくても、信州は大きく分けて、4エリア(11藩)が、各谷に分散され、孤立していたため、生活様式や、文化が様々で気質も違うため、この11藩を1つに纏めるのは至難の業だったに違いない。

その挙句北信の人以外は、「何であんな北の端の長野に県庁を置くのか?」という反発は強かったのは想像に難くない。[普通に考えれば県の中央に位置する松本か、諏訪辺りが最もふさわしいと思う。そうなったとしたら県名も筑摩県になっていたに違いない]

 

事実信州人で、「今までに飯田に行ったことがない」とか、「長野に行ったことがない」という人が存在した。事実新幹線や、高速道がなかった時代は、長野から飯田に電車で行こうと思っても、実に9・10時間【待ち合わせ時間含む】も掛かったのである。同じ時代長野~上野、松本~新宿間は、3時間半で行けたのだから、同じ県内の移動の方が遥かに時間を要したのである。

 

したがって北信VS中信・南信、東信の対抗心が強く、何かと揉める【その上信州人の特徴として理屈先行、白黒はっきり付けなければ気が済まないという性格は全県共通だから増々収拾がつかない】

 

そういう性格の信州人ではあるが、そういう気風を少しでも落ち着かせるのが「信濃の国」の歌なのである。

 

信濃の国

 

信濃の国歌詞

1.

信濃の国は 十州に

境連ぬる 国にして

聳ゆる山は いや高く

流るる川は いや遠し

松本 伊那 佐久 善光寺

四つの平は 肥沃の地

海こそなけれ 物さわに

万ず足らわぬ 事ぞなき

2.

四方に聳ゆる 山々は

御嶽 乗鞍 駒ヶ岳

浅間は殊に 活火山

いずれも国の 鎮めなり

流れ淀まず ゆく水は

北に犀川 千曲川

南に木曽川 天竜川

これまた国の 固めなり

3.

木曽の谷には 真木茂り

諏訪の湖には 魚多

し 民のかせぎも 豊かにて

五穀の実らぬ 里やある

しかのみならず 桑とりて

蚕飼いの業の 打ちひらけ

細きよすがも 軽からぬ

国の命を 繋ぐなり

4.

尋ねまほしき 園原や

旅のやどりの 寝覚めの床

木曾の棧 かけし世も

心して行け 久米路橋

くる人多き 筑摩の湯

月の名に立つ 姨捨山

しるき名所と 風雅士が

詩歌に詠てぞ 伝えたる

5.

旭将軍 義仲も

仁科の五郎 信盛も

春台 太宰先生も

象山 佐久間先生も

皆此の国の 人にして

文武の誉 たぐいなく

山と聳えて 世に仰ぎ

川と流れて 名は尽ず

6.

吾妻はやとし 日本武

嘆き給いし 碓氷山

穿つ隧道 二十六

夢にもこゆる 汽車の道

みち一筋に 学びなば

昔の人にや 劣るべき

古来山河の 秀でたる

国は偉人の ある習い

 

1948年春の定例県議会で、長野県の分県意見書案(信州はもともと11藩あり、廃藩置県を経て、長野県・筑摩県に集約され、のち長野県となり、長野市に県庁が置かれた!そののちも県庁を松本に置くとか、旧2県に戻すとか、侃々諤々の議論があり、‘48年県会において、分県意見書案が上程された!まさに分県の危機という状況になった)が採決され様とした時、突如議場の傍聴席から『信濃の国』の大合唱が沸き起こって、分割を求める県会議員たちの意思を押し切り、打ち壊して、案を撤回させたというエピソードが残されています。