新ナショナリズムの正体!「森友学園」問題と「世界のアベ(自称<以下略すが同じ>)」を解読=伊藤智永(毎日新聞記者)

 

「世界のアベ」が苛立(いらだ)っている。大阪市の学校法人「森友学園」の右翼小学校開設に絡む国有地「不当格安」払い下げ疑惑は炎上を続け、鎮火どころか燃え広がる一方だ。日米首脳会談「大成功」の功績も早々に忘れられ、日々防戦に追われている。テレビが連日、面白おかしく報じる影響で世間の関心は高く容易に収束しそうにない。

 

昨年12月の日露首脳会談といい、2月初旬の日米首脳会談といい、国際秩序の歴史的な構造大転換を、ここまで日本は相当大胆かつ巧妙に乗り越えつつある。日本としては稀(まれ)な長期政権の経験と実績を重ねたリーダーの存在と資質なしに、それは到底なし得なかった――。そうした英雄気分も交じった自負心が、最近の安倍晋三首相には強い。<そんなものは自分で決めるのではなく世間の評価が決めることだ!>

 

プーチン、トランプという覇権国リーダーたちと肩を並べて、引けを取らない、むしろ牽制(けんせい)し合う米国と欧州連合(EU)首脳間の仲介役となり、主要国全体の要でもある「世界のアベ」は、誇張でも自惚(うぬぼ)れでもなく現実であり、やれ北方領土交渉は進展がなかっただの、暴言大統領におべっかを使いすぎだのといった論評など、木を見て森を見ず、批判のための批判で、相手とするに足らないという尊大な自信である。

 

その自己評価からすれば、国会で長時間詰問される森友未認可小学校の「疑惑」など、実にくだらないイチャモンとしか聞こえない。しつこく質問されていると、雄大な外交戦略と卑俗な雑事の落差にイライラしてくる。安倍首相の胸の内を想像すれば、そんな心象風景だろう。早く低級な国内問題から解放されて、好きな外交に邁進したい。毎月のように組まれる外遊は、格好のストレス解消にもなっている。

 

しかし、安倍首相の苛立ちは、外交と内政、雄大と卑俗の落差ばかりが原因ではない。日露・日米首脳会談と学校法人「森友学園」問題は、実はどちらもナショナリズムの発露という特徴が共通している。ただし、外交ナショナリズムはグローバリゼーションの潮流に棹(さお)差し、そこで生き残るため、さらに果敢な攻勢に打って出る新しいナショナリズムであるのに対し、日本会議的なナショナリズムはステレオタイプの旧来「保守」型であり、グローバリゼーションへの積極的対応や親和性は薄い。

 

水と油の新旧ナショナリズムが、引き離そうとしても磁石のN極とS極のように安倍氏の両脇にぴたりと張り付き、安倍「保守」政治のねじれで首相本人も捩れている。「保守」という多義的な価値観のずれが日増しに拡大し、安倍「保守」政治がまたざき状態になりつつある。安倍政治から「保守」の要素が引き剥がされて、国内自足的な旧態「保守」とは同居し難くなっている。そのジレンマにもがく苛立ちも深層に底流している。

 

■安倍応援団から「日本会議は迷惑」■

 

米国から帰国した4日後、2月17日金曜日の夜、安倍首相は公邸に「安倍応援団」のジャーナリストらを極秘に招き、「訪米大祝勝会」を開いていた。翌週から始まる毎月末の「プレミアムフライデー」が待ちきれず、こっそり1週間前倒ししたようなものか。日米首脳会談は野党や一部メディアの批判にもかかわらず世論調査の評価が高く、安倍首相としては日露首脳会談への「失望」(二階俊博自民党幹事長の弁)を埋め合わせる大ヒットとなった。参加者一同、「勝利」の美酒を干し、高笑いが止まらなかったようだが、そこでも日本最大の草の根右派組織「日本会議」に話が及ぶと、数人から「エースがせっかく好投しているのに、外野が足を引っ張って試合(政権運営)をぶち壊されては迷惑だ」といわんばかりの苦々しげな発言が出たとされる。

 

「森友学園」の籠池泰典理事長は、日本会議大阪の幹部(運営委員)。経営する幼稚園の園児たちに教育勅語を暗唱させ、保護者に「在日韓国人や支那人」を誹謗(ひぼう)するヘイトスピーチまがいの文書を配布したり、「保守」を履き違えた行状で世論の批判を浴びた。開設予定の校名が「安倍晋三記念小学校」だったり(取り消したが)、贔屓の引き倒しに閉口したのだろう。

 

「森友学園」問題にとどまらない。日本会議会長の田久保忠衛氏は、元時事通信外信部長を務めた法学博士号を持つ国際政治学者(杏林大学名誉教授)で、ニクソン元米大統領の外交戦略を分析した著書もある。伝統的な共和党外交史観に立脚し、トランプ米大統領やプーチン露大統領の外交路線には批判的で、2人との個人的親交を基盤に日米・日露外交を進める安倍外交の進め方にも懐疑的だ。新聞・雑誌にそうした見解を公表している。

 

その国際政治観は、第二次大戦後の国際秩序の価値を真っ当に評価した上で現実的戦略を重視する。国際秩序の価値が溶けだした「多極化・Gゼロ」の世界を器用に泳ぎ渡ろうとする安倍外交の融通無碍(むげ)さとは、生理的に折り合えない面があるようだ。大所高所の理論でも、今の安倍外交にとって日本会議は煙たくなっている。

 

日本会議ブームの火付け役となったベストセラー『日本会議の研究』(扶桑社新書、17万部)の著者、菅野完氏は、日本会議の主張は、結局「オンナ・子供は黙ってろというオヤジの差別論理」に要約できると指摘するが、それは安倍政権の「輝く女性」政策(女性尊重というよりは、人口減少時代に経済成長を維持するための労働力総動員)とも折り合いが悪い。「3世代同居」を理想とする「伝統的家族観」(実際は、史実に反する高度経済成長期に生まれた「後世創造された疑似伝統」)など外形的には重なっていても、現実の政策として突き詰めると、日本会議は「足手まとい」になる要素が実は少なくない。リベラル層が「それが真相の筈だ、そうであってほしい」と思いたがる「政権右傾化の黒幕組織」という単純な陰謀論では説明できない実態がある。安倍首相と取り巻きたちが「お荷物」と苛立つわけだ。

 

■最近、ほとんど「保守」を口にしない■

 

漠然と「保守」という名でひと括(くく)りにしてきた「右派政権・勢力」の中に、安倍政権も4年を過ぎて「保守」観のずれが顕在化してきたとするなら、それは現実政治にどのような姿で表れているだろうか。

 

安倍首相と近しい取り巻きたちは、政策の軸を国内から国外へ移している。経済や内政は二の次に置き、大国が覇権を競い合う新たな国際競争時代を生き抜く外交戦を最優先政策と位置づける。すなわち、米露に中国も加えた大国の外交は、今や各国が「自国第一主義」を掲げる新たなナショナリズムの大がかりな競争と連合のせめぎ合いとして繰り広げられる。そこでの大義名分は国際協調より国益追求である。国際協調が普遍的理念を目指した挑戦と革新であるのに対し、国益追求は既得権益擁護を柱とし、一見すると保守的で旧態依然に見える。

 

しかし、新しいナショナリズムは、新自由主義経済・軍事力信奉・近代合理主義(脱歴史)といった政策志向性を持ち、国益最優先ではあっても、必ずしも徹底した「保守主義」であるわけでもない。ファッションとしての脱着可能な「保守」と言ったらよいか。安倍首相が最近、問われなければ自分からほとんど「保守」を口にしないのも、その為だろう。

 

古いナショナリズムは、実は明確な経済政策がない。力を賛美するが、武力を裏付ける技術や経済力の涵養(かんよう)に積極的でもない。曖昧に近代主義だが、中途半端に「歴史性」をまとって、「伝統」を連呼するが、実は史実に疎く、反知性主義的だ。そうした態度が冷戦後の日本では四半世紀余り「保守」を自称してきたが、「ポスト冷戦後」時代に入って次第に現実から遊離してきている。

 

新しい外交戦では、同盟や協定・連携は基本的に1対1の2国間関係で結び、多数国が連合する国際協調体制を避ける。全体的な合議形式の国際秩序形成が可能だとは信じないからだ。トランプ政権が環太平洋パートナーシップ協定(TPP)を離脱して2国間での再交渉を望むのも、世界貿易機関(WTO)の貿易紛争解決手続きについて「米国に不利なら従わない」と宣言したのも、象徴的な事例だ。トランプ大統領が核開発競争に乗り出すと宣言したのは、世界的な核軍縮の理想は絵空事と切り捨てるからだ。経済や内政は、これまで以上に外交・安全保障政策に結びつけられ、むしろ外交・安全保障政策を追求することに伴って実現しようとする。

 

思い出せば、安倍政権スタート時にはアベノミクスが最優先の政策課題だった。それがいまでは論理的に破綻し、ブレーンが学説の失敗や転向を公言しても、政権は慌てもしないし、取り繕おうともしない。どうでもいいのだ。2020年度までの財政健全化目標が達成できないと分かってもヘイチャラ。消費税率を引き上げなければ社会保障の水準は維持できないと説明してきたのに、政権延命の政治的都合で税率を据え置き続け、社会保障の水準が切り下げられても知らん顔である。

 

安倍政権は周辺国の脅威を「印象操作」する。いま世界はそれどころではない、中国が尖閣に迫っている、北朝鮮が近く暴発する、韓国がみるみる壊れていく、米国が後退していく、安全保障の危機がいま目の前に束となって押し寄せている。まずこれらに対処し、災害時の気象庁アナウンスのように「自分の命を自分で守る行動を取ってください」という国際社会の自己責任原則に沿った外交・安保政策で日本の安全を確保しなければならない。経済や内政は、その中で片付けていく。安倍政権はそうした路線に転換した。政策順位は、明らかに外交・安保優位に入れ替わっている。安保法制も共謀罪(テロ等準備罪)も女性活躍政策も喫煙規制も、そうした流れに沿って急いでいる。

そういう視点から評価すれば、安倍首相の対ロシア外交は、大局を見通した戦略的アプローチと評価される理屈になる。プーチン大統領のロシアは、人権弾圧からクリミア侵攻まで、国際社会の普遍的価値観から見れば到底許し難い非道の政権だが、地政学的に見れば、事情は異なる。EUの東方拡大に押されて、真剣にアジア進出を志向している。中国と平和的に共存しようとしても経済から人口まで圧迫されて日本やインドとバランスを取る必要に迫られている。東アジアのミサイル防衛体制に対抗し、太平洋から北極海へ抜ける潜水艦の航路を確保しなければならない軍事的要請を抱える。現在のロシアは、経済協力をテコに平和条約締結へ動く歴史的機運があるという見方は十分に成り立つ。力のナショナリズム同士こそが信頼し合えるという逆説的な戦略観である。

 

そこに「保守」の出る幕はない。トランプ大統領の米国とも、打算的なビジネス・ナショナリズム同士の友情と割り切り、精神性とは無縁のドライな同盟になる。やはり「保守」は何も役に立たない。

 

■首相の舌打ちが聞こえる「森友問題」■

 

安倍政治は「保守」を持て余し始めているのだ。しかし、それが政治的な自己存在証明(アイデンティティー)であると吹聴してきた手前、簡単に「脱保守」とも言えない。ずるずる“腐れ縁”を引きずっていたら、引っかかってしまったのが「森友学園」問題だった。安倍首相の舌打ちが聞こえるようだ。国会で「私の考え方に非常に共鳴している方」と籠池理事長を一度は持ち上げておきながら、2週間後には「しつこい」と露骨に迷惑がるまでの極端なぶれ方は、実は安倍氏自身の「保守」観の実相が思わず表れたとも見える。

 

私たちは教育勅語や差別表現の「思想的偏向」を指摘して、この事件の問題点を分かったつもりになっているが、果たして教育勅語の何が、どういけないのか、明快に答えられる人はどれだけいるだろう。

 

教育勅語が唱える親孝行や夫婦愛の「徳目」に感動し、賛同する自称「保守」は少なからずいる筈だ。その「思想性」こそが、安倍政治を支えているのだが、当の安倍首相の「保守性」がぐらついているとすると、支持する人たちの「保守性」は今、どこを漂っているのだろう。そうした「保守」が、「森友学園」を問題にできるのだろうか。安倍時代の「あいまいな保守」は確実に存在する。

 

 

 

記事・画像引用・参照元 Yahoo News<サンデー毎日>: 記者伊藤智永

http://mainichi.jp/sunday/articles/20170306/org/00m/070/009000d