十三湖から竜飛岬を目指す!「準備なしのその場凌ぎの旅」の悲しさ!通行止め憂き目に!戻って「七ッ滝」をじっくり見る!
青森県も何回も来たので、天気も良し、今回は今まで行った事のないところを目標にしようと思い、339号線(通称竜泊ライン)を北上し、竜飛岬を目指すことにした。初めて通る道は、どんな景色が現れるのかワクワクするものである。
十三湖を出ると、直ぐ日本海に出た。日本海は荒海というが、ここ等辺から、急に曇りになり、どんよりとした風景に変わってきた。人家も無い海岸端を走りながら、「もし自分がここ等辺で生まれたら、自分の一生も大分違ったものになるだろうなあ!」と思った。
そんなことを思いながら運転していたら、右側に急に滝が現れた。案内板に「七ッ滝」と記されていた。
時間も時間だから、先を急いだ。天気が大分回復してきた。山というよりは、起伏のある岡状の中を走り抜ける。一面茅の様なものが茂り、樹木は見当たらなかった。すれ違う車も無く、大自然の中を快適に走った。
まあ!ここ迄はよかったんですが、カーブを曲がり切ったら、急に道路を遮断するゲートが出現し、ヘルメットを被った「兄ちゃん」が現れた。よく見ると、ゲートには「冬季閉鎖」と書いてある。此処まで来たのに、「なんでやねん!」と思ったね! この兄ちゃん、小生の心の中を「一切考慮せず」、「済みません!冬季閉鎖でこの先はいけません!」とぶっ扱いたね! 画像の如く、途中天候は芳しくなかったが、ここ等辺一帯は、まさに青天。冬の「ふ」の字も全く感じられない。
☝ この憎き兄ちゃん目が!
「おい!おい!おい!そりゃねえだろう!折角大阪から来たんだから、(小生だけでも)通して!」と無茶振りで粘ったが、そういう訳も勿論いかない! おもえばあと僅かな距離で、目的地の竜飛岬である! 残念至極。因みにこの時の車のプレートは大阪ナンバーであった。京都支店赴任中に買い替えたものであった。(高槻市に住んでいたので) 今日は盛岡から来たのであるが、こういう時は大袈裟にアピールするに限る。
☝ あと14kmだったのに!
まあ幾ら粘っても、ゲートはあけてくれそうもないので、残念ではあるが、スゴスゴと戻るしかなかった。まあ!何時もそうだが、全くの準備なしの、「行き当たりばったりの旅」だから、こういう事態も当然ある。
海岸端の一本道だから、来た道をそのまま戻るしかないので、見るべきものは、七ツ滝だったから、そこをじっくり見ることにした。
【再び七ツ滝】
高さ21mの滝七段の岩肌を伝い流れることからこの名前が付いた。一見すると、幅は狭いが、幾筋にも分かれて落ちているので、七ッ滝というのかと思ったが、7段の段差があり、そこを流れ落ちるため、この名前が付いているということだった。季節によって、海からの強風により滝の一部が飛沫となって舞い上がるという神秘的な情景が楽しめる。冬は全面結氷となるらしい。
文政12年(1829)、薩摩藩都城(現在の宮城県都城市)出身の荒川秀山が蝦夷地松前の道中に小泊を訪れその景観に感動し「小泊十二景(七ツ石・権現崎・経島・羅漢石・姥石・辨天崎・稲荷堂・青巖・七瀧・傾石・竜飛崎)」を選定し七言絶句の漢詩を詠んだと伝えられています。七ツ滝も小泊十二景の1つとされ、滝の姿が真っ白な雪が波打っているように見え、水の勢いが鋭く青山に突き刺さる矢のようである事から「七級懸泉噴雪瀾 ○奔箭射○青山 願将磊落謫仙筆 灑使人間毛骨寒」と詠んでいます。江戸時代の紀行家菅江真澄(北東北の観光地ではこの名前が頻繁に出てくる!)も七ツ滝を訪れており寛政8年(1796)から10年(1798)の2年間で津軽地方を滞在した時にまとめた「外浜奇勝」に当時の様子が描かれている。
今回はハプニング[予め調べておけば回避できたはず]があり、道路閉鎖にあい、目的地は到達できなかったのは残念だったが、次回を期すことにして、盛岡への帰路に就いた。
青森県観光情報サイトアプテイネット
青森県歴史観光案内所サイト
画像元 yjimage
Original
一部上記サイトから引用(氷結の風景)
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