【歴史探訪】真田10万石 海津城(松代城)城内散策! NHK大河ドラマ 真田丸でお馴染み!

【歴史探訪】真田10万石 海津城(松代城)城内散策! NHK大河ドラマ 真田丸でお馴染み!

 

国道18号から戸倉上山田駅を超え、旧北国街道に入り屋代駅に寄ってみた。屋代駅は既にアップ済み。
尚も18号には出ず、千曲川沿いに、松代に出ました。所用も終わっていたので、海津城北駐車公園に車を停めて、暫し休息をとる。

案内板を見たら、海津城が直ぐ傍に見えたので、行ってみることにした。何時もは太鼓門から入っているので様子が違った。土塁を超えて、場内に入った。北不明門から入るを止め、西側に廻って、櫓北西隅にある、櫓から伸びる少々高めの土塁をよじ登ったが、結構急だったのと、草が少々濡れていたので、滑って扱けてしまった。

☟ 【歴史探訪】 海津城北不明門~太鼓門まで!撮影依頼を受けてしまった!

仕方がが無いので、櫓の石垣と土塁の境目に足を掛けて登った。カメラ片手で登るのは意外と難しかった。この土塁から、城方向を見ると、堀が俯瞰できる。土塁を南方向に回り込み、取っ付きを15メートルくらい滑り降りた。そこから太鼓橋に向かって歩く。太鼓門まで行くと、観光客が並んでいた。其の儘撮影を続行していたが、「シャッターを押してくれませんか?」と依頼された。小生も俄か長野市民になって、お客様を歓迎する意味でシャッターを押しました。

再びカメラを回し、太鼓門から、東門、時計と逆回りに堀を巡って、再び東門から城内に入り、北不明門へと移動。これで城を一回り。

小学生の日記みたいになってしまったので、ここで海津城の歴史など一くさり。松代城は、永禄3年に武田信玄によって開かれ、高坂昌信を主とした。当初「海津城」と呼ばれていたこの城は、武田氏北信の攻めの要の城であった。 川中島の合戦は、この城を舞台に繰り広げられた。上杉謙信と対峙した妻女山は目の先にある。

 

☟ 【歴史探訪】 海津城太鼓門~北不明門まで!兵ものどもの夢のあと!

天正10年、武田氏滅亡後に森長可が城主となったが、織田信長が本能寺に斃れると上杉景勝の支配するところと変わり、天正12年には須田満親が城将となった。慶長3年、上杉景勝の会津移封によりこの地は秀吉直轄地となるが、慶長5年の関ヶ原の合戦前に森忠政が城主となった。 忠政は、関ヶ原の戦功により美作津山に移封、慶長8年に家康の六男松平忠輝が城主となった。松平忠輝改易後、甥の松平忠昌が城主となるが、元和5年に越後高田へと移り、変わって酒井忠勝が10万石で入封することとなる。元和8年、酒井忠勝が出羽庄内に転封移替わって信州上田よりNHK大河ドラマ「真田丸」でお馴染みの真田信之が10万石を領して入封し、以後明治までこの地を治めた。

☟ 【歴史探訪】 海津城北不明門 北堀 桐の花咲く!

明治維新後真田家が臣下に払い下げたり、買い戻したりと目まぐるしく変遷したが、真田家より、松代町(当時、その後長野市に合併)に寄付され、現在のように整備され、市民の憩いの場になっている。

現在は堀の一部、太鼓門、太鼓橋、北不明門等しか残っておらず、本丸や、櫓などの建物は見ることが出来ないのが残念である。10万石は、松本と真田藩しかなく、信濃の国では大藩であった。とはいえ、甲斐の国信玄と、越後の謙信の間に入り、また北条からの脅威の中で、知略で戦うしかなかったのは、「真田丸」のストーリーの通りである。

大河ドラマのお陰で、上田、松代も観光客で大いに賑わっている。

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