伝統文化の担い手「車師」 屋台1台分に半年 日本に数人しかいない技術の継承者
祭りを盛り上げる彫刻屋台。その車の担い手となる「車師」は日本で10軒に満たない。そのひとりが、江戸時代から続く荷車製造業「乾 樫木工所」(鹿沼市上材木町)の7代目、乾芳雄さん(68)だ。20歳で父に弟子入りし、一人前の職人となって46年になる。ユネスコ無形文化遺産に登録された「鹿沼今宮神社祭の屋台行事」に携わった職人でもある。
「明治までは荷車や農道具を主に作っていて、28年前のふるさと創生事業の頃から、屋台の車に携わることになりました。鹿沼は秩父や飛騨高山に比べ知名度はないけれど、樫の木が採れる希少なエリア。日本で一番堅い木で、ケヤキの倍は長持ちします。ただし、限界を見極める必要があって、叩いたときの音で、これ以上差し込んだら割れる、と分かる。車は材料が木だけで、糊もクギも使わずに組み立てます。外から見たら、誰が作ったか分からないかもしれません。でも、見えないところの細工がのちのち効いてきます。使ってから5~10年で職人の腕の違いが分かりますね。不良品は、ギイギイと木が悲鳴を上げますから。そうだなあ、私の作った車は手入れなしで20~30年は持ちますよ」
先代の父には「見て覚えろ」と指導された。考えて作ることが求められ、誰も教えてくれない。「一人前? 人さまからお金もらって、勉強なんていってられないからね。1~2年で恥ずかしくない品を出せるよう修業しました。車師の仕事は図面を描いてもできない。経験と工夫を重ねて仕上げていくのです」
樫の丸太は伐採から10年乾燥させたものを使う。車の組み立て後、旋盤と呼ばれる機械工具を用い、周りを丸く削る。「この組み方は日本にしかない技術です。数年前、ドイツから視察に来たけど気が散るから見せられなかった。組み立て作業は気分を盛り上げて一気にやるんですよ。ご飯を食べることも忘れる。作業は基本、ひとりで黙々とやっています。車4つ、屋台1台分を作るのに半年はかかりますね」
65歳で辞めるつもりだったが、市の担当者から弟子の育成を頼まれ、現役を続行しながら1人に教えている。
江戸時代から車師は、自分の作品に名前を刻んでいるのだけど、私は付けないんです。見る人が見て分かってくれたらいい。生き方が下手なんだ。でも、誰よりも頑丈な車を作っている自負はある。屋台車は何百年に1回の買い物。だからこそ、すぐ傷んでしまう製品を作って依頼者に恥をかかせることはできません。屋台車に乗る若い衆が『良い車出してくれてありがとう』と言ってくれたら十分ですよ」
これが表裏のない「職人気質」こういう人たちが伝統を支えてきた。現在はそういう風潮は廃れ、嘘を言おうが、手を抜こうがお構いなしの世の中になった。「美しい日本」が、真実を隠し、退廃さを助長する言葉になり果てている。これでいいのかニッポン!?
記事・画像 引用・参考元 日刊ゲンダイ
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