被爆者の立場で原爆治療続けた医師・肥田舜太郎さん死去 広島で自身も被爆
被爆者治療と核兵器廃絶運動に献身した被爆者で医師の肥田舜太郎(ひだ・しゅんたろう)氏が20日午前8時2分、肺炎のため川口市内の病院で死去した。100歳。岐阜県出身。葬儀・告別式は26日午前10時半から、さいたま市浦和区瀬ケ崎3の16の10、さがみ典礼北浦和葬斎センターで。喪主は長男泰(ゆたか)さん。
日本大学専門部医学科卒。44年軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。45年8月6日、爆心地から6キロ地点で被爆。直後から被爆者救援・治療に当たり、医師を引退した2009年までの64年間で6千人を超える被爆者を診療した。
戦後、レッドパージを受けて国立病院を解雇される。その後、労働者、貧困者のための病院作りに奔走し、全日本民主医療機関連合会(民医連)創立に参加。埼玉民医連会長、埼玉協同病院(川口市)院長、日本被団協原爆被害者中央相談所理事長、県原爆被害者協議会(しらさぎ会)名誉会長などを歴任した。
55年の第1回原水爆禁止世界大会に参加し、放射能障害について報告。75年以降、欧米を中心に37カ国を海外遊説し、被爆医師として被爆の実相を語り、核兵器廃絶を訴え続けた。福島原発事故以降は、内部被ばく・低線量被ばくの健康被害と危険性にも警鐘を鳴らしてきた。
引用元 埼玉新聞
被爆医師・肥田舜太郎さん最後の別れ さいたまで葬儀、全国から参列
20日に100歳で死去した被爆者で医師の肥田舜太郎さん=県原爆被害者協議会(しらさぎ会)名誉会長=の葬儀が26日、さいたま市浦和区のさがみ典礼北浦和葬斎センターで営まれ、多くの被爆者や医療関係者らが全国から参列した。被爆者治療や反核運動に生涯をささげた肥田さんの姿に思いをはせ、「志を継ぎます」「これからも見守っていてください」と、25日の通夜と合わせ計700人が最後の別れを告げた。
満面の笑みを浮かべる肥田さんの遺影。「命の主人公になってください」「核兵器は人間と共存できません」―。斎場には肥田さんが残した言葉とともに、これまでの足跡が並べられていた。
「被爆者が言葉にできない心の声に耳を傾け、生きる励ましを与えてくださいました。被爆者が原爆と闘うことの大切さを教えてくださいました」。しらさぎ会会長で日本原水爆被害者団体協議会(被団協)事務局長の田中熙巳(てるみ)さん(84)=新座市=は弔辞を読み時折、声を詰まらせながら肥田さんに向かって語り掛けた。
同じ被爆者として核兵器廃絶に向けて運動を共にしてきた田中さん。27日から米ニューヨークの国連本部で核兵器禁止条約の締結に向けた交渉が始まることに触れ、「先生の口癖だった『被爆者は長生きすることが核兵器との闘いにもなるのだよ』という言葉を守り、核兵器のない世界のために闘い続けます」と誓った。
肥田さんは原爆投下後、広島で負傷者の救援治療に当たった。「医者として、苦しむ被爆者を前に何もできなかった」という無念の思いから、戦後は行田市や旧浦和市で診療所を開き昼夜を問わず診療に当たるなど、原爆症の解明に奔走し寄り添い続けた。
しらさぎ会事務局次長の浜中紀子さん(73)は旧浦和市でチラシを配布して歩いていた肥田さんの姿が忘れられない。「放射能の怖さを一番知っていて、一番向き合っている医師だった。1世紀にわたり走り回ってきたから、ゆっくりお休みください」
同会の木内恭子さん(81)は「誰に対しても分け隔てなく、人が大好きな方だった」と人柄をしのび、「被爆者は長生きしないといけないという肥田さんの言葉を忘れずに、残された私たちで頑張っていきたい」と核兵器廃絶への思いを新たにした。
引用元 埼玉新聞
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