老後という名の「牢獄」。介護したり、されたりの高齢者。病棟にせよ、在宅にせよ、いまや老後は「牢獄だ」
愛知県大府市で2007年12月、認知症の男性が徘徊中、JR東海道線共和駅の構内で列車にはねられた。男性は「要介護4」と認定されており、直前まで自宅で妻と2人きりだったが、妻がまどろむ間に外出。27年8月の名古屋地裁判決は、横浜市に住む長男と、妻の監督責任を認定。男性は預貯金だけで5千万円を超える遺産があったことも考慮され、JR東海に対し、(遺族に)720万円の損害賠償の支払いを命じる判決となった。
しかし長男は控訴し、2審では、事情が見直され、賠償金は、360万円、長男の監督責任も「なし」との判決が下ったが、「86歳の妻一人に監督責任あり」とされた。結局責任の範囲、損害賠償金額は、減ったものの基本的に、遺族の責任が問われた。この時点で、長男は判決を受け入れようと一旦は思ったが、全国の高齢者問題を抱える家族からの励ましや支援の声を受けて尚も上訴したのであった。最高裁は、「家族に責任なし。一瞬の居眠りも許容しないような監督義務もなし」として、28年3月、一転してJRの逆転敗訴の判決を出した。
いまや日本は高齢化社会。今後ますます老人の数は増え、「超高齢者社会」の色彩を益々帯びていく。老々介護、高齢者の単身化、前述の徘徊者の監督義務の問題やヘルパーの高齢化、介護サービス内容の低下、自宅介護化などなど問題は山積み状態になっている。こういう問題が、「共助」、「公助」から、「自助」への集中化の方向にある。
作家のAM女史が、「老人は(いつまでも長生き出来るようになったが)、何時までも長生きしようとは思わず、(老人は何時かは消えていく運命にあるのだから)生きることに余り執念を持つな!」という趣旨のコラムを書いていた。その中で、「現在苦労している老人には、若い時の努力が足りなかったせいだ」というようなことも書いていたが、誰も好き好んで、「貧困生活」に甘んじているのではない。【親の七光り政府高官たちと同じで、お育ちが良すぎて、どうやら我々貧乏人の生活ぶりや気持ちがお分かりにならないようだ!】
いまやそこそこの退職金を貰い、贅沢もせず、細々と暮らしていても、税金、医療負担、物価なども上がり、年金の支給期の繰り下げ、減額、高齢者の働き先もなく、幸運にも職にあり付けても時給780円とかの世界だ。結局虎の子の預貯金も取り崩し減っていくばかりだ。その上に、親の介護、病人や、子供の首切りなどに遭遇すれば生活は即「貧困老人」化に陥る。(預貯金100万円以下の世帯が30%を超えるという有様だ!)
更に災害に遭って、一瞬に家が倒壊したり流されたりすれば、残されたローンと、これから建てる住居との2重ローンの問題や、働き先の被災による働き口の喪失で収入を絶たれるとか、我々の生活基盤は何時崩れ、危機に晒されるか解ったもんじゃない。こういった構造的な問題が、現在の日本には基本的に横たわっている。
介護認定も中々厳しくなり、また認定度に見合うサービスも、所謂「自助」というスローガンのもとにカットされる傾向にあり在宅介護化が進んでいる。只でさえ、孤立化する介護が、在宅で益々「孤立化」を増長させていく。在宅介護に必要なことは、「孤立しない、孤立させない」社会の支援であるという。お国は「自助」を推進しており、ある意味「孤立化」を推進しているので、老後は「生きていくだけでも地獄=孤立化」みたいな形に陥りやすい。長寿国日本も一皮剥けば、喜んでばかりも居られない深刻な問題が存在するのである。
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