秀吉に一心に信仰され、結果天下人に導いた 縁起のいい「三面大黒天」! 元旦に付き登場!

 

秀吉を太閤にまで導いた、守り神「三面大黒天」物語

■ドン底の少年時代■

豊臣秀吉の少年時代は悲惨でした。尾張国中村(現在の名古屋市中村区)の百姓の子として生まれた秀吉は7歳で父と死別し、母の再婚相手から虐待される不遇の少年時代を送ったという。寺に預けられたもののすぐに追い出され、帰り着いた家では貧しい家計を支えるため薪を刈る重労働の日々。15歳の時わずかな金を渡されて家を出て、木綿針の行商をしながら放浪します。最初に仕えたのは今川氏配下の松下加兵衛という武将です。秀吉は一生懸命働いて目を掛けられたものの、先輩たちに疎まれて陰湿なイジメに遭います。蔵からの盗難を防ぐ対策を立てたところ、盗んでいた先輩たちが「あのサル(秀吉)が真犯人だ」と逆に濡れ衣を着せたのです。秀吉は孤立無援となり、何の落ち度もないのにリストラされてしまいました。再び放浪の身となった後は職を転々とし乍ら食い繋いでいたといわれます。

 

■運命を変えた出会い■

そんな辛く苦しい挫折ばかりの少年時代、偶然出会ったのが「三面大黒天」です。秀吉は強力な三神が三位一体となった三面大黒天を見るなり「これは凄いぞ!」と直感します。そして自らの守護神と定め、常に身近に三面大黒天の小像を置くようになりました。この出会いが彼を変えました。

 

■織田信長との出会い■

とつぜん運が開けたのはその後です。当時まだ尾張の小大名にすぎなかった織田信長に仕えることになり、天下人への第一歩を踏み出したのです。信長の草履取りをしていたときのことです。信長が草履を履くと温かくなっていました。「オマエ、尻に敷いておったな!!」と信長は怒髪天を衝かんばかりに怒ります。信長は戦国武将随一の激情家で、機嫌を損ねた茶坊主が膳棚の中に隠れたところ膳棚ごと叩き斬ったという恐ろしい人物です。秀吉は絶体絶命のピンチを迎えます。

 

そのとき秀吉は三面大黒天の加護を信じ、落ち着いて説明しました。「御足が冷えていらっしゃるだろうと思い、懐に入れて温めておりました」すると信長は感心し、すぐさま秀吉を草履取りの頭としたのです。手討ちにされて殺される寸前だった秀吉は、逆に出世の足がかりを掴んだのです。それからどんどん出世していきます。

 

1570年(元亀元年)すでに一人前の武将になっていた秀吉に再び絶体絶命の危機が訪れます。信長軍の一員として越前の朝倉氏を攻めていたとき、突如として盟友だった浅井長政が背後から襲ってきたのです。信長軍は挟み撃ちにされ、全滅の危機を迎えます。

■あの日の出会いが・・・■

そのとき秀吉は、敢然と殿(しんがり)を引き受けます。殿とは撤退戦における部隊の最後尾担当で、死を覚悟せざるを得ない様な役割です。秀吉は死を覚悟して無我夢中で戦い、信長をわずか10騎の供とともに逃げ延びさせることに成功します。そして自身も奇跡的に脱出に成功するのです。再び三面大黒天の力で九死に一生を得た秀吉は、信長を救った功績を高く評価されてますます出世していきます。

 

■信長の亡き後の怒涛の進撃■

1582年(天正10年)備中高松城を水攻めにしていた秀吉のもとに信長が謀反で殺されたという知らせが入ります。突然の主君の死に、秀吉は激しく泣きました。そのとき、かたわらにいた黒田官兵衛が耳元でささやきました。「運が開けましたな。いよいよあなた様の天下ですぞ」秀吉はハッとします。ついに天下人になるチャンスを与えられたのです。その後秀吉は1585年(天正13年)に関白となり、北条氏を下し天下を統一します。職を転々とする放浪少年だった秀吉は、三面大黒天と出会ってわずか30年で天下を取ったのです。三面大黒天の加護があったればこその人生でした!

 

■人知を超えた「三面大黒天」の偉大な力と加護により生き抜いた秀吉の人生■

秀吉は1598年(慶長3年)に亡くなります。辞世の句は「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」。人間の小ささと、人知を超えた力の偉大さを知り尽くしたかのような句です。

 

■出世・金運向上の神■

秀吉の出世栄達が証明しているように、三面大黒天は出世、金運において劇的な力を発揮します。現代の企業経営者で三面大黒天を密かにまつり、大成功を収めている人もいます。

■出会いを導く「縁結びの神」 ねね・憧れの人お市の方の娘「茶々」との縁■

また当時サル顔の貧しい足軽にすぎなかった秀吉が、織田家中のマドンナ的存在だったねねと結婚できたように、縁結びにおいて強い力を発揮します。実は秀吉の恋愛成就はねねだけではありません。もう一つ奇跡が起きているのです。秀吉は信長の妹の絶世の美女、お市に一方的に好意を寄せていました。しかし相手は主君の妹で人妻。どう考えても叶う恋ではありません。お市は1583年(天正1年)北ノ庄城で自害してしまいます。ところが秀吉は、落城する北の庄城からお市の娘の三姉妹を脱出させることに成功するのです。そして50歳にして、母にもっとも似ているといわれた長女お茶々(のちの淀殿)を側室とすることに成功します。やがてお茶々は秀吉の後継者、秀頼を生みます。三面大黒天は不可能を可能にするのです。

 

■三面大黒天とは■

三面大黒天は大黒天、毘沙門天、弁財天という強力な天部が三位一体で合体した神です。

大黒天はインドにおいてはマハーカーラという戦闘神でしたが、次第に財宝をもたらす力が知られるようになり各地の豪商が守護神としました。力強い金運の神です。弁財天もインドにおいてはサラスヴァティーという学問、音楽、弁舌の神でしたが、無数の体験の積み重ねから現在では主に財をもたらす神として知られています。一方、毘沙門天は強力な戦勝の神としてあらゆる障害を除去します。かつて聖徳太子、坂上田村麻呂、楠木正成、上杉謙信、武田信玄らが篤く信仰し、戦いで勝利を収めました。毘沙門天といえば上杉謙信が有名ですが、実は武田信玄も約4cmの金色の毘沙門天像を兜の中に入れて出陣していたのです。

 

これら単独でも強力な三神が一体になったとき、天下をも取らせる凄まじい力が生まれるのです。

 

 

 

■比叡山大黒堂・比叡山の守護神でもある三面大黒天■

三面大黒天を日本で最初に祀ったのは天台宗開祖の最澄です。最澄は804年(延暦23年)国費留学生として唐に渡りますが、そこで三面大黒天の凄まじい力を知り、自ら三面大黒天像を刻み比叡山の守護神としました。当時の比叡山は最澄の小さな草庵に過ぎませんでしたが、三面大黒天を祀ってからどんどん発展し「日本仏教の母山」と称されるまでになったのです。また大勢の僧兵を抱えて強大な権力を持ち、長く武家政権をも脅かす存在として君臨しました。

 

戦国時代には信長の焼き討ちに遭いましたが、信長は予想外の謀反で殺され、代わりに三面大黒天を守護神とする秀吉が天下を取ります。秀吉は比叡山を再興させ、自らも莫大な寄進をしました。現在比叡山はユネスコ世界文化遺産に登録され、天台宗の総本山として多くの参拝者を集めています。また比叡山宗教サミットの舞台となるなど、世界的に重要な位置を占めています。三面大黒天が祀られた大黒堂はいまも比叡山の中心部に鎮座し、山全体を守っています。そして一千二百年間絶えたことのない「不滅の法灯」は今日も根本中堂を照らしています。

 

年頭に当たり、本年のご健勝とご多幸を祈念して、縁起の良い「三面大黒天」様をご案内いたしました!

 

 

引用・参考元 (株)日本黎明社

http://www.j-reimei.com/sanmendaikokuten.htm