「今を変えたいひと」が訪れ参拝する 「別当達谷西光寺と達谷窟毘沙門堂!(岩手県平泉)最強のパワースポット!
平泉の諸堂が存在する「中尊寺」を「毛越寺」などの寺域から、西方向に更に行くと岩にへばりついたような、ユニークなお堂がある。パンフレットか何かで、見たときに、是非訪れたいと思っていたお堂である。
さてそのお堂であるが、達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂と称され、1200年も昔に開かれた由緒あるお堂。奥州藤原3代が栄華を極めた頃より更に昔のことで、岩肌にくっ付くように建てられた毘沙門堂が特徴的である。再生や金運UP、縁切りと、「現実を変えたい」と願う人にお勧めのパワースポットとなっている。
この達谷窟は、別当・達谷西光寺(たっこくせいこうじ)にあります。お寺なのに鳥居があり毘沙門堂は神域で、達谷西光寺境内とは厳格に区別されていました。「別当」は毘沙門天に仕えるのが勤めとされたため、檀家が一軒もなく葬式をしないという珍しいお寺。
お寺に伝わる「毘沙門堂達谷窟縁起」によると、以下のような由来があります。
約1200年も昔、この地に悪路王・赤頭・高丸などと呼ばれる蝦夷)が、この窟に塞を構え乱暴な振舞いでこの地の良民を苦しめていました。国府も抑えることができず、時の天皇・桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐の勅令を下す。悪路王達は3000の兵を率いて駿河国清美関まで進みましたが、坂上田村麻呂が京を出発した知らせを聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めました。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は窟に籠る悪路王等と戦い、激戦の上これを打ち破り首を刎ね、蝦夷を平定。坂上田村麻呂は戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、そのお礼にと清水寺を真似た舞台造りのお堂を建て、108体の毘沙門天を祀り国を鎮める祈願所として「窟毘沙門堂」と名付けられました。
この「悪路王」というのは、当時この地の軍事指導者だった「アテルイ」だとする説があります。アテルイは延暦8年(789年)、現在の岩手県奥州市付近に侵攻した朝廷軍を撃退しましたが、後坂上田村麻呂に敗れ処刑されました。
縁起を否定するつもりはありませんが、この頃は侵攻を正当化する為に、相手方を悪者にする傾向がある。その分割り引いて考えて良いと思います。(正史とは元々こういうものなのです。チョット考えれば、ここに住んで居た人たちの立場から、見れば、中央から派遣され、平定しにやって来た、坂上田村麿こそが「悪者」で、「悪魔」と感じたに違いないのです。
先住していた人達を、打ち殺し、平定した訳で、これを「正当化」する為に、先住民を「蝦夷」と蔑み、敵将を「悪路王」等と称し、あくまでも中央朝廷が、歴史の正当性を持つというストーリーを作ったのです。要するに権力闘争のドロドロした悍ましい出来事を、自分たちに都合よく、正当性が如何にもあるというものにしたのです。
ここのところを認めず、正史が「事実」と思って、真面に研究している「歴史学者」も多い。権力とは、そういう経過を辿ったもので、自分たちの正当性を主張するために、事実を曲げ、相手を必要以上に貶め、自らの正当性を主張(誇張)する。そういう事を常に頭に入れておかないと歴史を見誤る。
トラベル アップ
画像 Original (東北北統轄支店在勤中撮影)
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