【訃報】桂歌丸さん逝く!…多くの病気を抱え、あだなは「病気のデパート」
生涯現役を貫く!
東京の国立演芸場。2016年7月、若手の真打昇進披露口上を歯切れよく言い立てた。舞台袖には車椅子が待つ。楽屋に移り、酸素吸入器のマスクを口へ運ぶ。「大きな声は出せる。腹でしゃべるから。なぜ、頑張るかって? 苦があって初めて、その先に楽がある。あたしは、最後に目を瞑るまでやる覚悟です」
横浜市にあった遊郭で生まれ、育った。経営者の祖母が親代わり。中学3年で落語家になり、65年。50周年を迎えた演芸番組「笑点」を初回から支え落語芸術協会の会長も務める。
7年前、肺気腫と診断された。肺の組織が壊れ、たまった空気を押し出せなくなる。「鼻をつままれてしゃべっている、動いてるって感じ」が離れない。
50年近く、缶ピースを1日40本以上吸う愛煙家だった。「ストレスからじゃない。あれは、一つの癖ですね。入院して治る。また吸ってまた入院。まさか、こんなにひどくなるとはねぇ」 他にも多くの病気を抱える。これまで、手術は計8回。月に四つも病院に行く。笑点のメンバーが、半ば本気でつけたあだなは、「病気のデパート」だ。 体重はこの1年で5キロ減った。家でも酸素吸入器が手放せない。それでも、月の半分は高座にあがる。不調な呼吸にあわせて、落語の間や演出を変えてきた。 もう一つ、あだ名がついた。「不死鳥」である。晩年は入退院を繰り返した。それでも不死鳥のように蘇ってきた。
29歳で笑点の大喜利レギュラーになった。37歳で独演会を始める。一見、順調に見える出世街道も、実は病気が“旅仲間”だった。「あたしは多病息災。病気の数でギネスブックに載りたいわけじゃないけどね」 若い頃からのメニエール病で、左耳は常に耳鳴りがする。40歳代でヘルニアを患って以来、蓄のう症、胆のう摘出と手術が続く。
2000年、60歳過ぎでの急性 汎発(はんぱつ)性腹膜炎は、さらに大ごとだった。自宅で突然、激しい腹痛に襲われた。七転八倒して、声も出せない。救急車に乗った瞬間、意識を失った。 腹腔(ふくくう)内全体に炎症が広がり、緊急手術が始まる。手術前の集中治療室。かけつけた娘が話しかけた。
「お父さん、あたし、誰だか分かる?」「ブタ」
「何がほしい?」「カネ」
娘は、仰け反った。意識もうろうなのに、お客を笑わせるつもりでいる……。
落語家の暮らしは不規則で、教科書通りの健康管理はできない。肉を食べないなど、偏食も直さなかった。「今の時代、医者から『太ってくれ』と頼まれるのは、あたしくらい」
病気が重なってもへこたれない。「負けちゃいられない」から。ただ、こうも考えた。「病気とけんかしちゃあいけない。本気でやったら、相手にかなう訳がない。向こうの言い分も聞いて、ある程度は仲良くしてやっていこう」と。
■次々に襲ってくる病気■
2006年、70歳を前に、今度は腰部脊柱管狭窄(きょうさく)症の手術を受けた。固定用に8本のボルトを入れた。入院中のベッドで、古今亭志ん生や三遊亭円生ら名人のテープに聞き入った。
その後も2回、腰を手術したが、腰痛は慢性化して治らない。立ち上がるのも大変で、楽屋でも柔らかな座布団は使わなくなった。ふかふかのソファもだめ。硬いパイプ椅子にちょこんと座る。高座にあがると、痛みは感じない。
この腰痛のため、大好きな渓流釣りもやめた。 できないことが増えると、心境に変化が起きた。 「残った道は落語しかない。この年になったら、脇道、横道を見ずに、落語というこの道をまっつぐに歩いていきたい。あたしは、本当に落語バカなんだ」
明治時代の「落語の神様」三遊亭円朝の作品に挑み始めた。怪談話や人情話の長編作品に自分なりのアレンジや解釈を加え、数年かけて語り通す。「『笑点の歌丸』だけでは終わりたくない」との思いがあった。
病気は次々に襲ってきた。肺気腫の悪化だけでなく、自慢の歯もだめになった。帯状疱疹(ほうしん) 、腸閉塞、背中に傷やただれができる背部 褥瘡(じょくそう)でまた手術……。
■桂歌丸さん…多くの病気を抱え、あだなは「病気のデパート」■
桂歌丸さん!笑点卒業、仕事増えちゃった! 笑点の最後の司会が翌月に迫った2016年4月30日。番組収録後の記者会見で「卒業」を発表し、「体力の限界」と語った。
病気のことで人にあたったことはない。イライラが募っても、「落語を覚えるしかない」と、自分で整理した。けれど、歩くにも人の手を借りるようになり、「これ以上、周囲に迷惑はかけられない」と思った。
「歌丸の顔と名前を売ってくれたのが、笑点。大きな恩人です。さみしいですよ。でも、若い人に譲り、笑点を後に残さなければ」
「ツルみたいな体形」「生きたミイラ」。歌丸への毒舌ギャグで番組をわかせた14歳下の三遊亭円楽が、時に舞台裏や公演先で車椅子を押してきた。歌丸は、笑点の役柄になじめなかった頃、「俺を(ターゲットに)使え」と手を差しのべてくれた大先輩。日を追って小さくなるその背中が、高座ではピンと張った。会見で円楽は、「長生きしてください」と言葉をかけた。
5月22日に生放送された特別番組は、平均視聴率27・1%(関東)を記録した。
司会は24歳下の春風亭昇太に譲った。マンネリを強みにした笑点。「無理に変えなくてよい。60年、70年と続けてほしい」と思う。
2016年8月、80歳の誕生日を迎えた。「司会を降りて仕事が減るかと思ったら、逆に増えちゃった」。寄席だけでなく、地方からも出演依頼が相次いでいる。
■80歳で「まだ人生の折り返し地点」■
1966年に始まった笑点。当時のメンバーで現役の落語家は、歌丸一人だ。 2009年、半世紀にわたり苦楽を共にした盟友、先代の三遊亭円楽が、76歳で亡くなった。人工透析治療を受け、脳梗塞も患った。復帰後の高座で、古典落語の名作「芝浜」を口演。その出来に納得せず、引退を決めた。肺がんで亡くなる前、病室を見舞った。 「円楽さんがあたしに言ったのは、たった一言でした。『頼むよ』――と」「笑点のこと、次にあたしが務めた司会のこと、一門のこと、落語のこと。短い言葉に、いろんな意味が込められていました」
気の利いたせりふが浮かばず、ただうなずいた。
11年には、初代の司会を務めた立川談志が75歳で亡くなる。番組に歌丸を引っ張った恩人でもあった。晩年、喉頭がんや抑うつ状態などにあがく自身の姿を、最後まで観客に見せた。
「あたしは、自分の人生のしまい方のことは考えません。山ほど病気がやってくる。病気のことを考えるぐらいなら、落語のことを考える。80歳は、まだ人生の折り返し地点。あたしは、あと80年生きます」
医師に「頑張っている姿に励まされる人が多い」と言われる。「そう、がっくりしちゃあいられない」
落語家の旅は、まだ終わらない。(文・鈴木敦秋、写真・繁田統央)
※(このインタビューは2016年7月27日から8月24日にかけて、読売新聞に掲載されました。)
記事・画像 引用・参考元 Yahoo News(Yomi Dr)
画像元 yjimage
コメント