盛岡周辺は馬の一大生産地だった!昔の馬市を偲び「馬検場祭り」に行ってみた!
(盛岡赴任時の記録)
盛岡周辺は昔から、馬の生産が盛んであった。毎年6月に行われる「チャグチャグ馬コ」はそれを象徴するもので、自分たちの為に働いてくれた馬に感謝する祭りである。
盛岡市には馬にまつわる町名がある。藩政時代から、馬の売買が行われていたことに由来して、馬市が行われていた周辺は「馬町」(現在の清水町)と呼ばれていた。(寛永盛岡図に新馬苦労(ばくろう)丁とあり,万治元年(1658年)に新馬町(しんうままち)と改めた。後に馬町と改め,さらに文化9年(1812年)に馬喰(ばくろう)町と改められたとする説と,そのまま馬町とされたとする説がある。)
☝ 昭和54年当時の馬町の様子
馬検場を中心とする馬市は1912 年まで馬町で行われ、その後、馬検場は新馬町(現在の松尾町)に移ってしまったが、いまもその跡が残っている。馬の売買が行われていたことが町名の由来。当町では万治元年には馬のせり市が行われており,宝永7年(1710年),藩命により駄馬の売買は当町のみで行われることとなった。当初,馬市は,歳市として毎年12月の9日,19日,29日の3回開かれていた。
☝ 展示物の転写 奥にある三角屋根の建物は今も現存する!(下の画像参照)
明治3年(1870年),民部省養馬懸出張所が設置されたが,産馬事業の民有移管により,同14年(1881年),岩手県産馬事務所が創立された。同事務所が明治23年(1890年)に改組して,盛岡産馬畜産組合が誕生する。馬町馬検場を中心とする馬市は,同45年(1912年)まで行われ,その後,馬検場は新馬町(現松尾町)に移った。
そんな訳で、盛岡周辺の馬について、いろいろ情報を得ていたところ、この「馬検場祭り」の「おしらせ」が、ポストに入っていたので、出掛けることにした。とは言え、大体の場所を当った丈で、例によって、行き当たりばったりの、「ぶらり一人旅」である。
旧馬検場は直ぐ見つかった。結構な人出だ。ここでも「チャグチャグ馬コ」はスターである。子供を乗せて歩いたりしている。あとは当時の風俗というか、扮装している人たちが、場内を闊歩している。後は馬検場の歴史とかの展示など。その他は、模擬店のコーナーがあり賑わっていました。
盛岡というか、東北一般に言える事かも知りませんが、過去のものを大事にするというか、祭りごととか、多く、何処かで、なにか行事があるという感じですね。東北は、嘗て日本において、もっとも栄えた文化圏だったという説もあり、根底には、自信と誇りを持っていると思います。東北は、中央に平定され、ある意味歴史から抹殺されてしまったという側面があり、何かマイナーな印象付けをされたところがあるのではないか。しかし根底には、その精神が脈々と生き、現在へと流れ込んでいる様に思う。そういう息吹を感じるのである。話が大袈裟になってしまったが。
- 東北には、土着の神「アラハバキ(丈ではないが…)」が存在したが、中央に制定されて以降、消されてしまった神である。柳田国男は、『石神問答』において「諸国に客大明神(きゃくだいみょうじん)・客人(まろうど)杜・門客人(かどまろうど)明神杜などという小杜があって、それがアラハバキと称されることもある。いずれも神名・由来ともに不明である」と述べている。
- ここでいう「神名、由来とも不明」というところに、「消されてしまった・・云々」が隠されていると思う。
- 客人神<伊勢神宮・清水寺などメジャーな処にも祀られている>とは、その神社の主祭神との関係が深くない神で、主神の祀られている拝殿の一隅に祀られたり、「門(かど)客神」と称され随神のような所に祀られたりする神である。客神が祀られるのは、外から来た神が霊力をもち土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと解釈されている。
- しかし私は違う印象を受ける。日本には、権力によって、虐殺されてしまった側の、怨念等を鎮める考え方があるが、この思想の延長線上にあるのだと思う。歴史とはこの繰り返しで、時代の転換期には、主客転倒するが、勝った側は、自らを正当化するため、「奉ろわなかったもの」を抹殺する。そもそも正史とは本来そういう物だ。
- 東北に関してもう1つ言えば、中央から、意識的に抹殺された、或いは封じ込められた神の存在がある。前者とはニアンスが異なるのだが、早池峰山の瀬織津姫である。白山の象徴である菊理姫も封印された神であるが、何か東北の謎というか、隠された日本の歴史があるように思う。
- 話しは逸れに逸れ、脈略もなく書いてしまったが、馬検場を訪れてそんな事をぼんやり思った。
記事参考 盛岡市HP
町の様子、昔の馬検場の写真は、上記を参照・引用。
その他画像は、Original。
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