【史跡巡り】中之条指定史跡!桃瀬の水牢跡に寄ってみた!税の取り立ては、昔も今も過酷で変わりない!

 

 

須坂~習志野を往復するのに、菅平から、鳥居峠を越え、群馬県に入り、嬬恋~長野原~国道17号に出る道は、混雑もなく、時間が読めるので、よく使ったルートである。但し冬場は、鳥居峠の途中から、菅平に抜ける山道が通行止めになるので使えないのが惜しい。

 

中之条から国道145号線を沼田方面に向かう。吾妻神社=和利宮を、越えた先、道路端の錆びついた看板が目に留まった。「桃瀬の水牢跡」とある。桃瀬川を渡り、正面。 桃瀬川の右岸・山際にある。国道から西へ200m程の所にある。群馬県中之条町にある異色の史跡です。「水牢」とは、どんなものであろうかと思い寄ってみた次第。

 

沼田藩の第五代藩主真田信利の治世下で、年貢を納められなかった領民に「責め苦」を与え、領民の見せしめにしたという。吾妻地域に同種の史跡が9箇所あり、この桃瀬の水牢がもっとも原型をとどめているであろうと言うことで町指定の文化財となっております。が・・・

吾妻地域に見られるこの種の遺跡が、利根・沼田地域には見られない事から実際に真田信利の時代に用いられたものではなく、それ以前から使用されていたのではないか?と言われています。

 

町史跡 桃瀬の水牢跡。指定は昭和54年3月8日。水牢は人を水の中に入れる水責めの一種でおもに年貢のとりたてに使われたといわれる。水牢跡は近世の沼田藩の中で吾妻東部だけに残されている遺跡であり、沼田城の5代藩主:真田伊賀守信利は極悪非道な領主だった。重税を課し、厳しい年貢取立てをした。逆らう民には見せしめのために、寒い冬に水牢にいれた。

 

[註] 信利時代の圧政の記憶と、得体の知れない水牢なる異種な責め苦が後世混同された可能性は否定できません。伝説として、沼田藩五代目の藩主・真田伊賀守信利の、「苛酷な徴税にからめての話」が伝えられている。しかし、江戸時代の年貢は村請制で、村の共同連帯責任で、納めさせたので、個々に農民が水牢に入れられることはなかったかも知れない。

 

水牢遺跡とされるものが東吾妻には9ヶ所あり、利根地方にはないことからも、農民が苦しんだという話は、吾妻・利根地方を治めていた真田伊賀守信利の時代(近世)ではないとも考えらる。この伝説は、江戸時代よりも以前、(中世)のことかも知れない。無論、過去からあったものを信利が使用した可能性もあり、中之条町誌でもその説を採用しているようです。

 

使われた悪名高き“水牢”は群馬県吾妻郡でも9つもあったという。水牢は、旧東村の、「池廼薬師堂の水牢」&中之条の「桃瀬の水牢」が現存する。

 

 

記録には、12m四方に粗朶(そだ)をゆい、木戸を設け、周囲は石垣で、女は水を70cm位にし、子供のある者は背負わせ単衣(ひとえ)にさせ5人ぐらいを袖に縄を通してつなぎ入れたといわれる。男は首の浸かるまで入れたといい、体温低下により死んだ者もいたという。この悲惨な姿を見て、人々にすがり年貢を納めたのだといわれている。吾妻東部にしか見られないものなので、中世における岩櫃城主斉藤越前守(岩下衆)が使ったものと推定され、それを近世になり真田伊賀守も使っただろうと考えられている数少ない遺跡で貴重なものである。

 

参考 http://nordeq.web.fc2.com/shiseki/momose.html

http://53922401.at.webry.info/201202/article_16.html

画像元 オリジナル

(一部)http://53922401.at.webry.info/201202/article_16.html