【神社仏閣めぐり】薄昏時の山王坊日吉神社遺跡を決死の覚悟で散策する!<青森県五所川原市>

小説「津軽」の像記念館を後にして、339号線を南下する。どこへ行くかは例によって不明。行き当たりばったりの旅。唐川城跡展望台というのがあったので上ってみた。更に339号線を南下。12号線との合流点を過ぎて暫く行くと、赤い鳥居が見えたので、左折し、なおも走ると、「山王坊日吉神社遺跡」の案内板が目に入ってきた。どうやらその昔、この地には、大きな寺院があったようだ。

さてどうするか、もうかなり陽は傾いており、鎮守の森などという規模ではなく、かなりの広さを伺わせたから、行くにしてもかなり時間を取られ、陽も暮れる心配もあったのでどうするか迷った。しかしこの地を再び訪れる保証もないので、意を決して前へ進む事にした。

案内板のその先は、二股になっており、左側には赤い鳥居が見えた。一寸変わった鳥居であるが、この形には見覚えがあった。京都支店在勤中に訪れた滋賀県の日吉大社と同じである。以下案内板に書かれていた内容と五所川原市の観光情報HPから掻い摘んで記します。

山王坊遺跡は十三湖北岸、山王坊川が流れる沖積地の奥まった山間部に立地する中世宗教遺跡です。遺跡は山林に囲まれた日吉神社の境内地となっており、一帯は「山王坊」と呼ばれてきました。「山王」とは滋賀県大津市坂本にある日吉大社に祀られる大山咋神(おおやまくいのかみ)の別名であり、境内の入り口には日吉大社を象徴する山王鳥居が参拝者を迎えてくれます。

言い伝えでは、山王坊には阿吽寺があったとか、南部氏によって焼き打ちにあったともいわれ、一帯は古来より霊地として大切に守られてきました。これまでの発掘調査によって、中世における神仏習合を示す礎石建物跡(建物の土台石)が極めて良好な状態で保存されていることが明らかとなり、平成29年2月に国史跡指定となりました。

 

【山王坊・日吉神社の古記録】

現在、日吉神社の祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)で、創建年は不明。文献史料に関しては山王坊に関する中世の同時代史料はなく、次ぎのように近世以降の古記録が僅かに残るのみです。

安永九年(1780)の『福山秘府』には、嘉吉三年(1443)、南部氏との抗争に敗れた安藤氏に付き従って、山王坊・永善坊・万願寺實相坊が松前へ渡って行ったことが記されており、山王坊を名乗る人物が十三湊にいたことが分かります。

明治3年(1870)の『神仏混淆神社調帳』には、神仏分離に伴って、これまでの山王宮をやめて日吉神社と改名し、相内村の飛竜宮境内へ移したとあります。その後、明治9年(1876)の『新撰陸奥国誌』には、相内村の北東に山王坊という小堂があると記されていることから、この間に日吉神社として現在の場所に戻ったものと推定されています。

 

1)奥院(A地区)

最も奥に当たる丘陵斜面に2つの造成平坦面があります。一番高い平坦面には、一辺6mの方形配石墓をもつ奥院の存在が明らかとなりました。ここからは僧侶の墓石である無縫塔の一部や蔵骨器とみられる壷片が多く出土したことから、山王坊に関係する僧侶の墓である可能性が高く、代々尊崇されて、関係者も追葬されていったものと考えられています。

建物配置を復原すると、北から奥院、鳥居、下段の平坦面には幣・拝殿、その下方の緩斜面には石組階段が一直線上に並んで配置されていることが明らかとなりました。

 

2)社殿列跡(B地区)

山王坊川西岸の最も開けた平坦地にあたります。建物配置を復原すると、南から拝殿、渡廊、舞台・中門・瑞垣・本殿が一直線に並ぶ社殿列跡が発見されました。さらに拝殿の西側には南北に連なる2棟の礎石建物跡も発見されています。

拝殿は、母屋が方三間で、その廻りに一間分の縁側をもち、母屋内部には浄土教系仏堂に特徴的な来迎柱の礎石が存在することから、本来は仏堂であったと推定(これを「旧仏堂」と呼びます)。

☝ 五所川原市観光情報からの引用画像です!

 

坂田泉氏によれば、この旧仏堂こそ『十三往来』にみられる阿吽寺(真言宗)であり、奥院とともに山王坊初期の遺構である可能性が高いという説を唱えている。真言宗では高野山奥院にみられるように、先祖の追善供養や法会を重要視していることから、山王坊成立当初は真言宗寺院が深く関わっていたのではないかと考えられています。

 

3)仏堂跡(C地区)

日吉神社境内入口の西側平坦地に3棟の礎石建物跡を発見しました。永井康雄氏によれば、最大規模の建物は南側を正面とする入母屋造か寄棟造で、仏堂などの仏教的色彩の強い建物であるという。こうしたことから、通常の仏堂建築ではなく、平安時代以降に建てられるようになった住宅風仏堂と考えられている。

 

と色々書いては見たが、陽が落ちる寸前の薄暗くなった山の中を歩いた訳ですが、建物はなく、礎石などの遺構が殆どなので、一層心細い思いをした。そんな訳で、画像も暗く、不鮮明であり、アップするに耐えない代物であるが、事情を汲んで戴きたく存じます。

竜飛岬の中ほどで、日没となり、盛岡まで、エライ距離を残してしまったが、今回は遅くなっても自宅に帰るぞと覚悟して帰路に就いた。

 

参考および一部画像 五所川原市観光情報

http://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/sannobo.html

画像 オリジナル(画像は小生が東北北統轄支店勤務時<2005年7月3日>に撮影したものです)

画像元 yjimage

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E5%9D%8A%E6%97%A5%E5%90%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E9%81%BA%E8%B7%A1#mode%3Dsearch