体育会系特有の服従文化を止揚!青学・原監督の「コミュ力」は何がスゴいのか!

<岡本 純子氏のレポート>

 

2017年、日本の新春は箱根駅伝での青山学院大学の3連覇で幕を開けた。一昔前はまったく無名の弱小集団だった青学陸上競技部が、堂々の常勝集団へと生まれ変わったわけだが、スポーツチーム躍進の陰にはつねに、卓越したコミュニケーションを駆使する名将がいる。「勝利を手繰り寄せる」原晋監督の”コミュ力(対話能力)”のマジックとはどういったものなのか。

 

■超体育会系の文化が根強かった■

 

毎年、中継点やゴールに足を運び、寒風すさぶ中、ひたすら選手を待ち、極限まで力を尽くし倒れ込んでくる姿に胸を熱くしたものだった。合宿所に出入りするうちに、新人選手たちの家庭教師も仰せつかるようにもなった。当時はみんな坊主刈りで、選手は一様に「真面目で地味」。5区の山登りに象徴されるように、駅伝にはきわめてストイックで修行僧のような選手も多かった。だから、口数も少なく、監督や先輩の言うことには絶対服従という、超体育会系の文化が根強かったように感じる。

 

原監督の著書やこれまでのメディアでの発言などを聞くと、そうした「上意下達」的な服従文化を徹底的に覆そうとしてきたことがわかる。体育会系の部の中でも特に、個人主義的でコミュニケーションを軽視する陸上界に対し、「選手の自主性を重んじるチーム作りを見たことがない」「言われたことをそのままやっている強権的な部活」などと辛辣に異論を唱えてきた。監督に言われたとおりに動くだけの「指示待ち」選手がはびこり、選手たちがただ走るだけのロボットになってしまっているというのだ。

 

ゆえに「今までの陸上部的な指導とは真逆なコミュニケーションや言葉を大切にする」のが原監督の指導の主柱であると言い切っている。確かに多くの体育会系部活やその延長線上にあるようなスポ魂的会社組織において、トップダウンのカルチャーは根強い。トップ→役員→管理職→一般社員と言う「命令」「指示」の「シャンパンタワー」的フローをコミュニケーションと呼び、最下層から最上層へと遡ったり、社員同士で横展開するコミュニケーションの仕組みはぜい弱だ。

 

原監督のコミュニケーション戦略はまさにこの「常識」をぶち壊すもので、「指示を与える」のではなく、徹底的に選手の自主的な判断をゆだねるスタイルだ。自分たちで目標を立てさせ、プレゼンさせ、チームで議論したうえで、自主的に管理させる。

この点については、ラグビーワールドカップでの大躍進を導いた前日本代表監督エディ・ジョーンズ氏もまったく同じことを言っていた。「最近の若い人たちは上からあれをやれ、これをやれと命令されることを嫌がる。できるだけ、自分たちで答えを見つけ出させなければならない。だから、すべての選手が情報の単なる受け手になるのではなく、参画者にならなければならない。デシジョンメーキングに参画させ、自分たちで決めさせる」。

 

学校でも部活でも、日本の教育システムにありがちなのは、教師や指導者が「解答を与える」スタイルだ。一方で、欧米では「解答を見つけ出させる」教育が主流だ。そのために、教師と生徒はひたすらに対話を続ける。

 

著書『フツーの会社員だった僕が、青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉』の中の原監督の選手との会話に、こうした「対話型のコミュニケーション」のカタチが見える。原監督は、選手が「足が痛いです」と相談してきた場合に、ではこうしろ、という指示は出さない。ではどうするのか。

 

■原監督の徹底的なコミュニケーションとは■

 

「どこがいつから痛いの?」「治るまで1週間? 10日? 1カ月?」、「治るまで1カ月かかる場合はいつまでに治すように努力するの」「その間にできるトレーニングとしてA・B・Cがあるけど、どの方法でやってみたい」と、問いを重ねる。「私の質問の内容を想定し、自分なりに答えを出したうえで、『今回はトレーニングAで行きたいのですが、監督どうでしょうか?』というのが本当の相談」であり、相談とは指示を仰ぐことではない、と言うわけだ。

 

人間は相談を持ち掛けられるとどうしても、アドバイスや答えになるものを提供したい、という欲がでる。自分の知識を披歴したり、優位性を示したい、という本能的欲求に抗うのは容易ではない。しかし、子育てでも部下の教育でも、相手を下に見て、一方的に自分の考えを押し付けるコミュニケーションでは、相手に人間としての成長を期待できない。だから、原監督は「きみはどう思う?」「この課題はどうしよう?」とつねに問いかけているのだ。

原監督は体育会系の監督にありがちな大きな声で怒鳴ることはしないという。「お前ら、何やってるんだ」「何たるんでるんだ」などと叱責したり、怒るかわりに選手のそばに寄っていって「あー」「なんだよなあ」とつぶやく。それで、選手は自分たちに何が足りないのか気づくのだという。怒るより諭す。「言葉でじっくり諭すほうが、感情に任せて怒るより部員たちの心に響く」というわけだ。

 

選手たちの自主性を最大限に尊重し、モノ言える風土を作ることに腐心してきた原監督のコミュ力に対する拘りは随所に垣間見える。「人材を見極めるとき、自分の言葉を持っているかどうかを重視する」、「監督の言うことに何でも『ハイッ!』 と答える生徒には全然魅力を感じない」「チャラいと呼ばれるのは、表現力が豊かということであり、最高の褒め言葉」「体育会系にありがちな『ちわっす』ではだめ」などユニークな哲学を持っている。

 

スポーツ界では、半ば神がかり的な抽象的言葉による指導も多い。その代表が長嶋茂雄さんだろう。シャーッときてググッと、スッと来るからウンッと、バアッときてガーンと、などといったオノマトペ(擬声語)の宝石箱だ。これはこれで、指導を受ける方が宇宙的な「気」を受けるようなものだったのかもしれないが、他にも何とも言語不明瞭な指導者は少なくない。

 

日本の経営者にもよくいるが、自分目線の言葉でしか語れないので、相手の「腑に落ちる」ことがない。その点、原監督の言葉への執念は相当なものだ。つねに、選手たちのやる気スイッチを押すために、「陸上用語を使って指導するのではなく、選手が興味を抱く話題に置きかえて説明する」。アニメやひな壇芸人など部員に身近なネタを探し、ネタ帳に書き留めてストックしておく。「徹底的な相手目線」。これはコミュ強者の第一条件である。

■前例主義なんてブチ壊せ■

 

筆者が原監督の哲学の中で特に共感するのは、日本にはびこる「前例主義」への抵抗だ。「前例がない」というのは考える事、工夫することを放棄した人が使う言葉である、と言い切る。

 

「世の中にある業界や業種にはその中だけで通じる常識があり、時に非常識と思えるものや時代遅れになっている。同じ場所に長くいると、時代の変化に気づかないだけでなく、気づこうとさえしなくなる」と警鐘を鳴らし、「業界の常識を疑うこと」の重要性を訴える。

 

筆者も日々、さまざまな企業のリーダー層と接していると、自分のコミュニケーションに問題がある、と感じている人がそれほど多くはないことに驚かされる。強いチームを作るためにもリーダーこそがコミュ力の鍛錬に日夜励むべきなのに、「これまでこうやってきたので」という「前例主義」にとらわれている。

 

「進化しないことはまさに退化」。2017年、「昨日の自分を飛び越えるコミュニケーション」これに挑戦することが大切!

 

引用元 ヤフーニュース [東洋経済]

http://toyokeizai.net/articles/-/152435?page=1