【須坂歴史探訪】 大笹街道の信州側の起点 福島宿(須坂市)!嘗ての繁栄のあとを訪ねる!

 

嘗ての繁栄の跡を残す福島宿(屋島橋から村山橋方面<北方向>を望む!

 

須坂市の西端、長野自動車道・須坂・長野東ICから、西方向即ち長野市中心部へ向かう途中、千曲川に架かる屋島橋の手前を右に入ると、千曲川東岸に沿って福島集落がある。福島は千曲川屋島橋と、村山橋の間に存在する小さな町であるが、江戸時代には北国脇街道から松代道、大笹街道の分岐点の宿場町でした。

宿場の北端に旧本陣の「竹内家」がある。左端は千曲川の堤防で、ここで道は直角に曲がり桝形になっている。本陣の隣は寺であるが、ここでも90度曲がり桝形となっている。車の往来は激しく、この枡形は今では「障害物(!?)」になっている。

福島は戦国期ころから既に千曲川の「渡し」があり、交通の要衝でした。慶長16年、松平忠輝によって北国脇街道・松代道が整備され福島は伝馬宿として成立する。北国脇街道・松代道はこの先千曲川を渡って、対岸の長沼宿へ至り、豊野を経て本道へ合流しました。福島宿は南北約600m、北と南にそれぞれ桝形を設け、北の桝形には鎮守の天神社と浄土宗西福寺を配しています。北の桝形は旧本陣の竹内家に面して現存しています。(この道は堤防沿いに抜け道になっており、狭い通りだが、大型トラックなどの往来も激しく、直角に曲がる箇所がごく狭い地点に2か所あるので、歩いているとかなりの恐怖を感じる程である)

通りの中ほどに、「右松代道・左草津、仁礼宿」と記されている道標

また、福島宿は仁礼宿から菅平を抜け、群馬県大笹に至る「大笹街道」の分岐点(追分)でもあり、本通りの中ほどには、大笹街道の起点を示す石の道標「右松代道・左草津、仁礼宿」の道標がある。この辻を東方向に進み、暫く行った葡萄畑の一角に「福島城(舘)跡」という標識があった。福島城(舘)跡があるというのは以前から聞いてはいたが、今回初めてその場に立った。城跡とはいえ、辺りには現在遺構などは一切なく、畑や田になっている。

道標のある辻を東方向に3分程進むと、左側にある葡萄畑の一角に「福島城(舘)」跡の道標がある

 

大笹街道は、善光寺と現在の群馬県をつなぐバイパスとして、須坂市福島を起点に仁礼、鳥居峠を越えて群馬県大笹宿終点に、またそれから先は、大戸道を経て高崎、関東に出る大変重要な脇街道であったことは既に書いた。現在でもそうであるが、長野道を、高崎方面に上るよりも、この大笹街道を、菅平から、嬬恋、長野原方向に抜けた方が、距離的にも、時間的にも大幅に短縮できる。(ただしこの道の欠点は、11月から4月一杯は、菅平「明神沢」から鳥居峠に出るまでの山道は雪のため閉鎖されて通行不可になってしまう点だ!)

江戸時代の仁礼宿の繁栄の様子が、十返舎一九の「続膝栗毛」に描かれている。江戸に出るためには、善光寺から関東に出る一般的な手段としての、北国街道・中山道があった訳であるが、この大笹街道を経ることで、日数が掛からない(距離が短い)、宿場数なども少なく、滞在費などの経費も安く上がったため、特に商人などは大いに利用したようだ。(江戸時代末から明治時代、鉄道が敷設されるまで北信濃の荷物を江戸・東京に運ぶために賑わっていた) また、江戸や関東の文化や産業が北信濃にもたらされる重要な道でもあり、須坂に生まれた全国初の製糸結社「東行社」の設立にも少なからず影響したと言われている)

 

この様に大笹街道は、大名や旅人の往来は少なく、あくまで商業・農業主体の宿場町だったようで、宿場の南側には問屋・本陣を務めたと思われる旧家は見られるものの、所謂旅籠は少なかったようです。したがっていわゆる宿場町のイメージとは大分趣の変わった様子になっている。

本日は所用で長野に出たのだが、3時半に仕事が終わったので、宿場の面影が今なお色濃く残る福島(宿)に寄ってみた。真夏日にならんとする陽気ではあったが、千曲川の水面を掠める風は涼やかだった。

 

 

文・画像・動画 Original

いきいきすざか http://www.city.suzaka.nagano.jp/enjoy/gakusyu/oozasa/ 参照